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昭和の 氷

2024年08月05日

昭和46年生まれ53才、高橋裕です。
今日は「昭和の氷」で30分。
 
私が子供の頃の冷蔵庫には自動的に勝手に氷を作ってくれる製氷機機能は皆無で…
夏休みには4つ年上の兄貴と氷の争奪戦でした
それを見かねた母がタッパーに水を入れ常時大量の氷を作り置きしてくれ、私達兄弟はタッパーの氷を小さめの寿司桶に落とし、
これまた小さめのアイスピックを使用して丁度いいサイズの氷にして頬張っていました。
 
子供の頃、宇部線の駅前に住んでいた時に、駅通りに冬は肉まん・あんまん、夏はかき氷を売っているおじいさん、おばあさんのお店がありました。
親にかき氷(あの頃はすり氷と言ってたような)をねだって金のボウルを持参して「3人分下さい」とか言って買いに行っていました。家に急いで帰ったら皆でボウルにスプーンを、突っ込んで食べていました。
 
昭和の氷と聞いて思い出すのが「氷一貫目」です。子供の頃、お盆になると母方の祖母の実家があった上関町へと墓参りに行くのが家族行事でした。そのお宅のある集落にはお店が無かったので、ビールやジュースなどをたくさんクーラーボックスに入れて、こちらから持って行っていました。今のように保冷剤も無かったので、まず近所の製麺所に大きな氷を買いに行っていました。「氷一貫目下さい!」と言うとご主人が冷凍庫から大きな氷を出して来て、ノコギリでその寸法にザクザクと切っていくのが面白く見えました。その氷をクーラーボックスに入れて持ち帰りジュースやビールを詰めていくのですが、遠足のような気持ちで凄くワクワクしたのを覚えています。我が家でクーラーボックスを使うのは年に一度、この日だけだったので特別な日って感じもありましたね。
 
私が幼稚園や小学校低学年の頃、我が家には冷蔵庫は無く、代わりに台所には、内側の所々がブリキ張りで透明ガラスがはめ込まれた木製の戸棚のような物がありました。当時、町内には必ず氷屋が一軒あり、親が1貫目単位で買って来ていました。私も時々ついて行っていましたが、氷室から切られた氷を出していましたが、時には目の前で氷用のノコギリで氷を切るのを見ることもありました。氷は木製の食品保管庫用の氷でした。
 
昭和40年ぐらいの頃の父の話です。
林業の父は、仲間と当日木材を山から搬出するため、ウインチ(ワイヤーで木材を吊り上げる機械)を使用していたのですが、オーバーヒートで止まってしまったらしく、いつもは、沢の水を使って冷やすそうですが、白い煙ばかり立ち込めて、全然効果がなかったため、悩んだ挙句、『氷』を使う。という事になったそうです。
父達は、軽トラいっぱいに"木くず"と"ゴザ"をあるだけ積んで1時間かけてふもとの"製氷工場"に取りに行って、何とかしのいだという“武勇伝”を夏になると、姉と私に話していたことを思い出します。
姉は、“2時間待ったら冷えたんじゃないん?”と相変わらずでありましたが…。
 
私が子供の頃の冷蔵庫は、氷を作るところが、冷蔵庫の中の上にあり簡単な構造でした。アルミのケースの中に、格子状になった金具が入っていて、水が固まったら、テコの要領でレバーを引っ張ります。ガシャっと音がしてバラバラになった氷ができます。氷を作るところがむき出しになっているので、すぐに霜がいっぱい付いていました。
 
私は高専一年の夏休みからレストランでアルバイトをしていたのですが、私が初めに任された仕事はお冷や用のグラスに氷を用意する事。
当時まだお店に製氷機がありませんでしたので、氷屋さんから届くブロック状の氷をアイスピックで割って一つ一つ入れて用意を。最初は氷のサイズがマチマチでしたが、郡の目とアイスピックの角度が合えば均等なサイズが仕上がる様に。そして氷屋さんの氷って透き通っていて溶けにくかったのを覚えています。
 
私が18才の時の昭和57年。
 
祖母を萩まで車で迎えに行き、下関まで連れて行きました。車にあまり乗った事が無かったおばあちゃん。車酔いをしたらいけないと、マヨネーズの空のチューブに水を入れ、氷らせた物を持って車に乗って来ました。
途中、何回も、チューチューと吸っていました。
車酔いもせず、無事に下関に到着しました。
 
さて、次回も「昭和の氷」で行きましょう。
山根さん好みの冷凍怪獣の話はもちろん、昔の1ドア冷蔵庫、かき氷、氷まくら、ウイスキーのまあるい氷etc昭和の頃の“氷にまつわる話”をお待ちしております!
 
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