ご昭和ください

ご昭和ください ブログ

昭和の 見た目

2024年04月21日

昭和46年生まれ52才、高橋裕です。
 
今日は「昭和の見た目」で30分。
 
クリスマスブーツのお菓子セット。
見た目は最高でしたが、上底の上に、いかにも売れ残りスナック菓子を詰めて、ほぼいっぱいの状態に有名メーカーのチョコ、ガムとかをのせてネットをかぶせて包んでありました。それでも、サンタからプレゼントもらったみたいに嬉しかった。
 
昭和50年頃、母方の祖父が「私の父に似てないか?」と、週刊誌に載っている小林亜星さんの写真を見せてくれました。父の方が少し痩せていたけど、 黒縁メガネで大柄でデップリしたお腹に「似てる~!」と家族で大笑いしました。
 
母親に出来上がったばかりの高校の卒業アルバムを見せたら「なんで先生が学生服を着ちょるんかね?」と聞くんで、見ると、それは同級生のガミくんでした。逆に、担任の先生は、大学を卒業したばかりの童顔だったので余計老け顔のガミくんが先生に見えたようでした。
 
昭和のプロ野球の映像、特にON全盛期の頃
観客席が写るとほとんどが男性、しかも背広にネクタというイメージがあります。
まるで後楽園球場の内野席にはドレスコードがあったんじゃないかと思わせるほどです。
みんな一張羅を着て気合いを入れて野球観戦してたんでしょうかね。
 
小学6年生の時にハイソックスなるものが登場しました。とてもオシャレに見えて親にねだりましたが却下。制服の無い学校だったので、どうしてもハイソックスを履きたい私は発明しました。靴下を濡らして引っ張り上げたらハイソックスになったのです。友達から「買ってもらったん?」と聞かれて「うん!」とウソを付いていました。でも、このニセモノのハイソックスは常に濡れていなければいけないのです。時間がたって乾くと、魔法が取れて只の靴下になってしまいます。授業中、次第に乾いてゆくのが気が気じゃありませんでした。  
 
21歳の時、初めて買ったのが、中古のホンダN360です。空冷の360cc、レッドゾーンは確か6000回転、単車のエンジンです。
当時、エアコンなど無く、三角窓から、車内に空気を入れて、涼をとっていました。
そんな時見つけたのが「冷房車」の青い文字のシール。これを窓ガラスに貼り、真夏の暑い日、わざわざ窓を閉め、見た目冷房が効いている振りで走ってました。車中は灼熱地獄でした。
 
中学校はお弁当持参でした。我が家はそれほど貧しいという程の家でも無かったのですが、父の方針でご飯は白米と麦を混ぜたご飯でした。世の中もこの頃には白米の時代。お弁当のご飯に麦が入ってるのが恥ずかしくて弁当箱の蓋を立てて食べていました。でも、ある日気が付きました。ご飯が炊けた時、麦は軽いからか炊きあがりの上層に集まる。それ以来、自分でお弁当箱にご飯を詰めることにしたのです。麦を避けて下に沈んでいる白米だけをすくって白米弁当にしたのです。今は健康志向で麦も堂々と食べられてて、あの時の私の苦労が可哀想に思えてます。
 
さて、次回4/28も「昭和の見た目」で行きましょう。老け顔ネタ、ドーベルマンがいるお家は裕福に見える、見た目で勝負するために車をカスタムするetc次週も昭和の見た目のネタお待ちしています!
 
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「昭和の大きすぎる」
トレンディドラマのW浅野が使っていた携帯電話ってデカかったなぁ。

昭和の 故障PART2

2024年04月14日

昭和46年生まれ52才、高橋裕です。
 
今日は「昭和の故障 PART2」で30分。
 
子どもの頃、ファミコンのコンセントのケーブルをぐるぐる巻きにして保管していたのですが、そうすることによってアダプタの接触がすぐに悪くなってしまい…。うちではジャンプを重しにして凌いでいたのですが、ちょっとした衝撃で電源が落ちてしまうため、テレビの前を通る妹に「動かんといて!」とよく喧嘩をしていました
 
傘を直してたお店屋さんは神田町ですね。傘の骨が折れたり、持ち手が壊れたりした時によく直してもらってましたね。山根さん、懐かしい話をありがとうございました。そうですよね、昔はそんなに買って貰えなかったですよね。
 
私が10歳頃まで住んでいた家のお風呂は樽を大きくした様の物でした。底も周りも全て木を組み合わせて出来ているからか、度々水漏れをしてました。その度に父は木の皮を軟らかくした繊維状の物を木槌を使って隙間に詰めていました。
 
超能力ブームのころ、ユリ・ゲラーが出演した生番組がありました。
その番組中で、もし動かなくなった時計があったら
テレビの前に持ってきて下さい。念を送りますと言われたので、故障していた置き時計をブラウン管の前に置いてテレビを見ていましたが
やっぱり動き出しませんでした。
 
実家のラーメン店の中にあったビールやジュースを入れていた透明な冷蔵庫が真夏に故障しました。交換する事になり、新しい冷蔵庫が届くまでの間、別の離れた冷蔵庫まで、飲み物も取りに行かなければならず、夏休みで手伝いをしていましたが、大変でした。
 
ある年の真冬に誰もいないのにインターホンが鳴ることがありました。
接触の問題かと思い、玄関の子機を叩いてみたところ蟻がちらほらと出てきたため、蓋を開けてみると子機の内部が蟻の巣になってました。
機器内が温かいため巣を作ったようで、蟻が接点に触れてインターホンが鳴ってしまったようです。
 
18歳の時にバイクで走っているとマフラーが落ちてしまったことがあり…。熱々のマフラーを拾った後に近くの金物屋さんで紐を買い、マフラーを紐でくくりつけて背中に背負って、爆音の中帰ったことがあります。たまたま暴走族が通りかかったのですが、私のバイクの方が圧倒的に音がうるさく、逃げるように帰りました。
 
さて、次回4/21のテーマは「昭和の見た目故」で行きましょう。子供の頃から太っちょだった僕はかなり気にしてました、見た目。弁当の見た目も気になる、見た目300g入っているはずなのに意外に少ないと思ったら上げ底してたetc 昭和時代の“見た目”話をお待ちしておりますよ~。
 
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「昭和のお腹が痛い②」
我が故郷、西武園ゆうえんちが今熱い!というお話も。
 
そして、今回はもうひとつご紹介したいメールが。
テーマとは無関係なのですが、ちょっと気になった事が…。
エフエム秋田で
「柳葉敏郎の昭和をご唱和願います」
という番組が始まっているようです。
タイトルが似てますよね~と思ってしまいました(笑)
私ども「大人のラジオバラエティ ご昭和ください」は、“昭和”と“ご唱和”をかけてのネーミングで2012年4月にスタートしました。
なんか、親近感ありますね~。

昭和の 故障

2024年04月07日

昭和46年生まれ52才、高橋裕です。
 
令和6年度シーズンが始まりました。
番組開始13年目のシーズンもよろしくお願いいたします。
今日は「昭和の故障」で30分。
 
 
炊飯ジャーの蓋が、閉めてしばらく経ってから勝手にパカッと開いて、保温中に開いたのに気づかないと中のごはんが乾いてカチカチになったことがありました。蓋を閉めた時はカチッと閉まるんだけど、時間差で開くのが困りものです。
故障かなと思いましたが、内釜の周りの蓋が合わさる部分にごはん粒を落とすと、ごはん粒が乾いてカチカチになって蓋の閉まりが甘くなり、時間差で開くことがわかり、その後は内釜の周りにごはん粒が落ちてないか気をつけるようになりました。
 
昭和30?40年代前半頃のテレビは、よく故障していました。テレビが映らなくなると、まず、たたく。案外、たたくと治るのは接触不良が原因だと思うんですが、叩いても治らない場合は修理を依頼していました。テレビ屋のおじさんは、革のアタッシュケースを開けると、様々な形の真空管がびっしり入っていて、何本か取り替えると不思議とテレビは映るようになりました。
最近では、家電や時計など修理する事は少なくなりましたね。
 
子供の頃、とにかくおっさんは、テレビとか、ラジオが調子悪いと、しばいてました。そして、揺さぶってみる。
ひどいおっさんは、「少しあぶってみい、」とか言って一斗缶で火をたいている所にラジオを持って行き、わやをしてました。
でも、不思議と直る事が多かったんです
 
「昭和の故障」と言えばやっぱりテレビですね、
最初に買ったテレビのチャンネルはダイヤル式でした。
ある時、ダイヤルをひねって、手を離すと映りが悪くなりました。手を離すと接点がずれる様になってしまったのが原因でした。
そこで、我が家の対策はというと…
ダイヤルの ひねる部分とテレビ台の間に「つっかい棒」をかませて、接点を合わせる原始的な方法です。ダイヤルに合わせて長さの違う棒をそろえてました。振動で「つっかい棒」が外れてしまうので
テレビを見ている間は近くでドタバタしないルールができました。
 
新車を買う契約をして、それまで乗っていた車は下取りに出すことにしました。
納車日が決まり、下取り車での最後のドライブは先輩を乗せてのゴルフ。
ゴルフが終わって国道を走っていると、突然エンジンが停止、ギヤをニュートラルに入れて惰性で走り、何とか道路沿いの空地に停車できました。
携帯電話を持っていない頃で、近くに公衆電話も無い、少し歩いて、近くの会社で電話を借りディーラーに連絡しました。調べてもらうと、タイミングベルトが切れていました。
 
父が若かった昭和30年代、川崎駅前やトンネルの中で車が故障しても自分で修理していたと、自慢していました。しかし、埼玉に引っ越した昭和55年、家族旅行中に車が故障した時は「今の車は複雑すぎる」と言っていました。なんとか修理店までたどり着き、帰る事ができました。
 
さて、次回4/14も「昭和の故障」で行きましょう。機械絡みの話が多くなるんでしょうが、車やテレビ以外のお話もお待ちしております。
エアコン、お風呂、おもちゃetc 今年度も“ご昭和リスナー”の皆さんのニッチなネタお待ちしておりますよ~。

昭和の クリアランス

2024年03月31日

昭和46年生まれ52才、高橋裕です。
 
今週は令和5年度最終日ということで、これまで紹介したかったけど読めなかったクリアランスメッセージ特集で30分。
 
2018年「昭和のコーヒー」
コーヒールンバを聴いて思い出したことがあります。井上陽水さんがこの曲をカバーした時、笑っていいとものテレフォンショッキングに出て歌っていました。
「それは素敵な飲み物コーヒーモカマタリ」と歌った後、「この、コーヒーモカマタリっていうのは、コーヒーも藤原鎌足…って意味じゃないですよ」とタモリさんに言ってたのを思い出しました。
井上陽水さんって面白い人ですね。
 
2018年「昭和のコーヒー」
私たちの時代はコーヒーに限らず、お茶以外の飲み物は珍しく、ハイカラという感じが多かったように思います。家でコーヒーをいれて飲むなどということはほとんどなく、せいぜい街に出た時に瓶入りのコーヒー牛乳を飲むという程度のことでした。それもごくたまに。その頃、私の同級生がお見合いをしました。わざわざ大阪まで出かけてのことです。そのお見合いの席は喫茶店のようなところだったとかで、お母さんと二人で行ったのだそうです。その席で出されたコーヒー。ちゃんとお皿に乗ってスプーンの添えられたコーヒーなど、田舎者にはとても珍しいものでしたが、ちょっとハイカラ好みだったお母さんがいかにもしたり顔で、スプーンですくって飲み始めたとか。顔から火が出るほど恥ずかしかったと話していたのを思い出しました。
 
2014年「昭和の東京」
昭和の東京の風景。初期の若大将シリーズを見ると東京の街に緑が多く、なんと若大将が都内でマラソン大会をして走っています。「日本一の若大将」
 
2015年ハガキ
山根さんが「夏休みは遊ぶように」と言われていましたが、私もそう思います。今51才になる娘が小学5年生の時、担任の先生が「夏は暑くて勉強が出来ないので夏休みがあるのだから宿題はださない」と言ってらっしゃいました。私も賛成でした。
 
2020年に寄せられたEメール
先週、二週に渡り、長崎ちゃんめんの話題、懐かしく聴いておりました。大学時代、祖父が山陽小野田市の病院に入院しており、そばにありました長崎ちゃんめんに家族と訪れたのが長崎ちゃんめんデビューでした。その後、叔母がお店にパートでお世話になったり、父が広島から厚狭に転住した後も近くにお店が移転?し、帰省した際にはよく食べに行ったものです。
 
さて、次回4/7のテーマは
「昭和の 故障」で行きましょう。車、テレビ、エアコン、お風呂、おもちゃetc 4月からご昭和くださいは、放送開始13年目のシーズンに入ります。
今年度も“ご昭和リスナー”の皆さんのニッチなネタお待ちしておりますよ~。

昭和の 我が家の常識PART2

2024年03月24日

昭和46年生まれ52才、高橋裕です。
 
今週は「昭和の 我が家の常識PART2」で30分。
 
私が幼い頃、母が「ハンバーグよ」と言って出すのはひき肉の料理ではなく、魚肉ソーセージを太くしたようなやつを切って焼いたものでした。
我が家ではあれをハンバーグと呼んでいたので、ハンバーグはああいうものだとけっこう大きくなるまで思い込んでいました。
 
小学生のとき、勉強は宿題だけしてたらいい、と言われてました中学、高校も勉強について、何も言われることはありませんでした
 
『電気製品を使ったら必ずコンセントor電池を抜く!!』
わが家では、冷蔵庫以外の電化製品は、使い終わるとコンセントから抜いたり、乾電池等取り出していました。
ある時、台風で、停電になった時は、明かりを探すのにそりゃあ~大変でしたが、それからというもの、父は臆することなく停電しそうなときは、なぜかあらかじめローソクをつけてやりくりしていました。相当、頑固者の父でした。
 
徳山に出かける時は必ずと言っていいほど よそ行きの格好をさせられました。
当時の徳山の街は今とは違ってと「ても賑やかで華やかだったからではないかと」今となって推測しております。
 
「貸したお金はあげたと思いなさい」です。
お金を貸すなら、戻ってこないという気持ちで貸すことです。
入社当時、独身寮の先輩に1万円を貸したんですが、その先輩はそのまま転勤となり、結局返してもらえませんでした。
戻ってこないと思い、貸したんですけど、40年以上前の話ですが、
やっぱり未だに覚えてはいるんですよね。
 
我が家は和食中心で、小学校4年生から祖父母と同居していたので、魚料理、野菜の煮物が中心でした。
たまに父の妹(私の叔母)か来てくれると、普段食べた事のない料理を作ってくれるのが、楽しみでした。
その料理の中でもホワイトシチューを作ってくれたのは良いのですが、我が家には洋食器がなく、汁椀で代用して、美味しく頂きました。
後日、学校の調理実習でシチューを作る事があり、学校には洋食器が揃えられている事に感激し、友達に「この前、ウチのシチュー汁椀に入ってたんよ。」と笑い話でお喋りしました。
学校から帰って、その話を母に言うと、「恥ずかしい事をベラベラ喋るんじゃない」と、すごく怒られました。
 
我が家では、カレーライスを食べるとき、箸で食べていました。
しかも、塗り箸を使って食べるのが常識でした。
そういうものだと思っていたから疑問に思いませんでしたが、給食でカレーが出たとき、先割れスプーンを使ったら、とても食べやすい。
なぜ、箸で食べるのかを聞いたところスプーンが皿に当たる音がカチャカチャうるさいからということでした。
なので、その後もしばらく箸で食べていました。
 
さて、次回3/31は令和5年度最終日ということでネタのクリアランス“いつか読みたいBOX”からご紹介します。
お楽しみに!
 
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「昭和のノドがカラカラ」
山根さんの素朴な質問「マイナスイオンのイオンって何ですか?」

昭和の 我が家の常識

2024年03月17日

昭和46年生まれ52歳、高橋裕です。
 
今週は「昭和の 我が家の常識」で30分。
 
昭和の我が家の常識。
「コタツに入る時は靴下を脱ぐ!」です。
私が小学生の頃のこと。「靴下を履いたままでコタツに入るとコタツの中が臭くなる!!」と母親が言っていたので、家族はそれに従っていました。なので私はそれが普通なのだと思っていました。
ある日、友達が遊びに来た時、「お母さんが怒るけぇ、コタツに入る前には靴下を脱いでくれ。」と言うと凄くめんどくさがられました。その時は、「よそではやらないんだ!」と逆に驚きました。
実は、私もコタツに入る前に靴下を脱ぐというのが内心面倒だなーとは思っていましたが、コタツで靴下を脱がない友達の家に行った時にその家のコタツの匂いを嗅ぐと確かに臭い!!お母さんの言う事は正しいんだなとその時思いました。
 
小・中・高と福井県で過ごしたものです。
昭和の我が家の常識と言えば、
家が夏季限定(7?8月)の観光地商売をやっていたので、
「夏休み中は子供達も家業を手伝う!」でした。
結局、小中高大は勿論のこと、就職してからも結婚して子供が出来るまでは毎夏手伝ってました。
 
我が家の常識は、「テレビを見る権限は親父にあり」でした。
「仮面ライダー」や「8時だヨ!全員集合」を見たくても見られませんでした。
父は会社から帰ってくるとまず、チャンネルを①に変えニュースを見ていました。
チャンネルを変えようものなら、怒鳴り上げられ、よく泣いていました。
でも、時々、帰ってくるのが遅い時や、父が出張の時は「仮面ライダー」を見ることが出来ました。
その反動か、大人になって「仮面ライダー」を最初から最後まで思う存分見ました。
 
私が子どもの頃、我が家では夜9時以降のテレビは見せてもらえませんでした。
唯一、土曜日の夜やってた「キイハンター」だけは、次の日が学校が休みということで、なんとか親に頼みこんで見るのを許してもらっていました。
あと、大晦日の夜だけは子どもも遅くまで起きていても怒られなかったので、すごく楽しみな特別な夜でした。
お正月の間店が閉まるので母が大晦日に食料を買いだめするのについて行くと、
レジカゴに私が勝手にお菓子を入れても、大晦日だけは怒られないので、好きなお菓子も食べ放題で嬉しかったです。
 
実家では、お正月三が日は、「新年早々食器を割ると縁起が悪い!」と言うことで、プラスチックや漆器等を使っていました。
結婚してからも、同じようにしています。
 
今でこそ、誰もが色んなおかずにマヨネーズをかけてますが、自分が子供の頃には、「マヨネーズはサラダに使うも」のといった固定観念がありました。しかし、我が家では、「ホカホカのご飯に思い切りマヨネーズをかけて食べるのは当たり前」で常識でした、ある時、友達とご飯を食べる機会があり、サラダに使うマヨネーズをご飯にかけたら、みんながビックリしてました。
 
『お金を持ってはダメ(高校まで)』
厳格だった父曰く、"働かざる者お金を持つべからず。ほしいものは、わしが判断して買う!!"でありまして、たとえ鉛筆やノートを買うことも許してもらえませんでした。
当時、学校で必要な○○費の回収は必ず封筒を学校から渡されていたのですが、びっしり糊付けされたものを渡された記憶が残ります。
部活終わりに商店に友達と寄れなかったことは今でも思い出します。
 
自分が子供の頃、我が家は三世代家族で、風呂に入る順番は一番はじいちゃん、二番は父親と決まっていました。
 
ところが、じいちゃんが晩年になると
「一番風呂は湯が硬いから、お前が先に入れ、ワシは二番風呂に入るから」と言われて、自分が一番に入っていました。
その時は「湯が硬い訳がないじゃん」と思って入っていましたが、今頃になってその感覚がわかってきました。
確かに、二番風呂の方が湯が柔らかく感じます。
 
さて、次回3/24も、「昭和の 我が家の常識PART2」で行きましょう。
靴を揃える、知人宅に行くときは新しい靴下を履く、違うものを肉だと思っていたetcあなたの家ならではの常識をお待ちしています!
 
そして、ご昭和くださいのYouTube動画、毎週水曜日更新です!
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「昭和の掃除②」
トイレ話で、ラジオでは出せなかったネタを動画オンリーで出してます!

昭和の 大きすぎるPART2

2024年03月10日

昭和46年生まれ52歳、高橋裕です。
 
今週は「昭和の 大きすぎるPART2」で30分。
 
 
昭和56年専門学校に通っていた頃のこと。夕方の広島・繁華街を友人3人とブラブラしていたら大きな外国人5人がいて、通訳の日本人が「彼らがディスコに行きたい!って言うから連れて行ってくれ」と頼まれ、外国人5人のなかで1番小柄な人がリーダーみたいで、すぐタクシーを捕まえようとするから僕が「near!walk!」で英語が通じて歩いて、やっとディスコがあるビルのエレベーターに皆で乗ることができました。あまりのデカさに驚きました。実は翌日わかったのが、その外国人5人はエキシビションで広島に来ていたカンザスシティ・ロイヤルズの選手で、1番小柄なリーダー格の人は数年後ロイヤルズの永久欠番5のジョージ・ブレットでした!あの時写真を撮ったりサインをいただいていれば……。懐かしい思い出です。
 
昭和47年、女子短大1年生でした。西宮市で2人部屋の女子寮に入っていました。相手の彼女は大柄で教育科。私は小柄で被服科。
授業時間が違っていて、その日、私が先に登校。学校は制服があり、黒のテーラーの上着とタイトスカート。「今日は椅子の立ち座りが楽だったなぁ」と寮に帰ると、彼女から「今日学校に行こうとしたら、あなたの小さい制服しかなくて着られないから学校に行けなかった」と言われてしまいました。クローゼットは1つを2人で使ってて、そんなことになってしまいました。
 
ご近所さんに、夏になるとふんどし姿で夕涼みするオジさんがいて、「お前ら服でも靴でも買うんなら大きなのを買わにゃあ損で」と、からかわれてました。そのオジさんは、私達が遊んでたら、よく粉末のオレンジジュース(渡辺だったかな?)を作ってくれてました。懐かしいなぁ…。あの頃の人達に会いたいものです。
 
小学校の卒業式に、記念品として卒業生に紅白饅頭が配られました。今、思い返せば、直径10センチ位でつやつやして美味しそうでした。その時は「何てでかくて美味しそうんな饅頭なんじゃろう」とえらく感動しましたが、食べたらぱさぱさで、おせじにも美味しいというものではありませんでした。
 
大昔のコンピューターのその前身の電子計算機。昭和50年頃に広島市で見学した事があります。広さは学校の教室4部屋分位が電算機室でした。防塵服を着て室内に入ると、二重床からの空調やラインプリンターが印刷する凄まじい音がしており、カードリーダーも時折かなりのスピードで動いていました。オープンリールテープレコーダーの親玉のような装置もあったと記憶しています。
その時の説明では、中央演算装置(CPU)のメインメモリは、ワンボックスの軽自動車位の大きさのケースの中にあり、容量が512KB(キロバイト)との事でした。
今のメモリは指先に乗るICチップですが、当時は穴の空いた円形の磁石に電線を通し、磁化されている方向が右回りか左回りかで1か0を記憶する方法でした。
 
「昭和の大きすぎる」で思い出すのが、プロレスラー「マクガイヤー・ブラザース」のおしりです。確か昭和49年ごろ徳山体育館からの中継をテレビで見た記憶があります。体育館の中をミニバイクに乗って登場し、バイクが潰れそうでかわいそうに見えました。マグガイヤー・ブラザーズ2人に対して日本人4人の2対4のタッグマッチだったと思います。インパクトありすぎでした。
 
 
さて、次回3/18は、「昭和の 我が家の常識」で行きましょう。
風呂は親父が一番に入る、ブラウン管テレビを叩くと映りがよくなる、イチゴを食べる時は牛乳をかけて潰してイチゴミルクにするetc.あなたの家ならではの常識をお待ちしています!
 
 
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https://www.youtube.com/watch?v=e2ol56otykM
「昭和の掃除①」
寝る前に1話ずつ見てますが、楽しい気分になっていい夢見られますよ。

昭和の 大きすぎる

2024年03月03日

昭和46年生まれ52歳、高橋裕です。
 
今週は「昭和の 大きすぎる」で30分。
 
 
昭和の大きすぎる、それは外国人プロレスラーですね。
アンドレ・ザ・ジャイアントも大きかったですが、私は昭和の終わりから平成に活躍したクラッシャー・バンバン・ビガロとビッグバン・ベイダーの2人の大きさの割に動ける身体能力にビックリしました。ロープ最上段からのムーンサルトプレスをこなすなど凄かったですね。もう1人ドン・レオ・ジョナサンも大きさの割に動けてナチュラルな強さがありましたね。
 
徳山に新日本プロレスが来たとき、選手入場を待って通路の一番前にいましたが、まだ出番でないラッシャー木村が寺西 勇のセコンドでやってきました。人生の中でこれ程、デカイ背中を見たことはありませんでした、大きすぎました。
 
大きすぎると言えば、やっぱり中学1年の学生服ですね。
中学の3年間での成長を見越して、ひと回りふた回り大きめのを買います。
手の出ない袖は、その都度母親がいい感じで詰めてくれたりしてくれるんですが、肩幅とかはどうすることも出来ないんで、ブカブカの、制服に着られてる感が半端なかったです。
 
新しい物好きの夫は、若い頃はボーナスが出るたびに家電の新商品を買っていましたが、初期のビデオカメラは大きすぎて、夫が肩にかついで観光地に行くと、それを見た人から「テレビ局のカメラマンが来た」と勘違いされるほどでした。
実家の犬をビデオカメラで撮ろうとしたら、でかすぎるカメラを見た犬がバズーカ砲で撃たれると思ったのか、固まったまま身動き一つしなくなり、せっかくビデオで撮った動画なのに静止画みたいになりました。
 
私には3つ上の兄貴がいますので、モノは基本お下がりでした。
兄貴が高校に進学する為に自転車を買うことになり、私にお下がり。でも、中3の兄貴の自転車は、小6の私にはデカすぎました。サドルを一番下げても、つま先がつく程度。
大橋さんの家に回覧板を持っていく時にコケて用水路、いやドブに落ちかけました。濡れずにすみましたし、回覧板も死守。
家族にはバレなかったのですが、見ていた大橋のおばさんが、母に後から話して、恥ずかしい思いをしました。
 
トレンディードラマ全盛の頃、W浅野が主演のドラマの中で使っていた携帯電話。昭和63年。あの時はカッコいいと憧れていました。しかし、今、携帯電話は手のひらサイズになり、あの時の物は、大きすぎたなぁ~と思います。
 
結婚して10年過ぎた暮れの事、大笑いしました。忘年会から帰ってきた主人が大きな革靴を履き、大きなダブダブの黒のコートを着て帰ってきました。おかしくて大笑い。主人は忘年会の幹事だったので支払いを済ませて帰る時、残っていたコート・革靴を身につけて帰宅したようです。
間違えて主人のコート・革靴を履いて帰った人、どうやって小さなコートを着て小さな革靴を履いて帰られたのかな?ぶかぶかの服もおかしいけど、小ちゃな服を着て帰られたご主人を見たその奥様も大笑いされたことでしょう。
 
 
さて、次回3/11も「昭和の 大きすぎる」で行きましょう。
山根さんはやっぱり「馬場さんじゃろぉ」と、先週はアンドレと言っていたんですがいずれもデカい。制服、ランドセル、家、風呂etc.昭和の頃の“大きすぎる話”おまちしております!
 
 
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またまた山根さんが小っちゃい事に突っ込んでくる「お相手の高橋 裕です」のお相手って誰のお相手か!?って。

昭和の お腹が痛いPART2

2024年02月25日

昭和46年生まれ52歳、高橋裕です。
 
今週は「昭和の お腹が痛いPART2」で30分。
 
 
私が小2の時、近所に美味しい琵琶がなる木がありました。学校帰りに取って食べていたところ、帰ってからお腹が痛くなりました。親に言うと怒られるので我慢していましたが、どんどん痛くなり、夕方、病院に行くことになりました。そこで、琵琶の食べすぎとのことでの便秘の診断を受け浣腸されました。
しかし、翌日は腹痛で足が立たなくなり、その日は木曜日で休診が多く、光市から柳井市まで救急搬送となりました。結局、虫垂炎で、浣腸したことでお腹が炎症。緊急手術となりました。今でも琵琶が食べれなくなりました。
 
元来お腹は丈夫な方ですが、忘れもしない中学1年生の時の出来事です。当時、給食に牛乳が出ましたが飲まない生徒も多く学校全体で毎日30本以上残っていました。生徒会の先輩達が勿体無いからと部活の生徒たちに配っていましたが、たまたま通りかかった私に可愛い先輩から「牛乳飲んで~」と言われ、カッコつけて3本も飲んだのはよいのですが、家に帰る途中、急にお腹が痛くなり慌ててスーパーのトイレに駆け込んだ思い出があります。
 
車の免許を取り立ての頃、4歳下の妹を乗せて津和野にドライブに行ったときのことです。帰りに山道を走っていると急にお腹が痛くなってきました。トイレに行きたくても店も何もなく、顔面蒼白で前のめりになり、早く家に帰ってトイレに行くことだけを目指して運転しました。
妹から「お姉ちゃん、頑張って」と励まされながら、やっと家に着き、トイレに飛び込む私。びっくりするくらい、大きなおならが出ました。でも、それだけ。おならを我慢して、お腹が痛くなっていたようです。家族には笑われ、我慢は禁物だなと思ったのでした。
 
昭和のクリスマスケーキと言えば、バタークリーム。バタークリームは日持ちがするので、12月25日でも26日でも売ってました。そして、どんどん値段が下がっていきます。
我が家は、いつも、2個目のクリスマスケーキを12月25日過ぎに、半額で買ってました。が、小5の時、26日にひいおばあちゃんが亡くなったと連絡が入り、急きょ、当時住んていた静岡県から山口県に帰省することに。慌ててクリスマスケーキを、家族4人で食べたのですが、私は調子こいて1人で半分近く食べたのですが、新幹線の中でお腹が痛くなり大変。人生初の胃もたれでした。新幹線の当時はまだ和式のトイレで、手すりをギュッとつかんで頑張ってました。
 
やす・きよ漫才、昭和の最強漫才コンビ、2人の掛け合い、スピード、やっさんのきれいにセットした頭をぐちゃぐちゃにするきよしさん、何回見てもお腹が痛たくなるほど面白い漫才です。
 
お腹がいたいと言えば、盲腸です。小学1年生の時、お腹が痛くなりかかりつけのお医者さんに行き、これは盲腸といわれ大きな病院へ行きました。それから、手術。
その時、院長先生がいなくて、若先生が執刀したと後でききました。そのせいか普通2針なのに4針縫いました。手術後にオナラが出ないといけないと何も食べれないので、オナラが出たときは嬉しかったです。1年生のお腹には大きな傷あとでしたが、今はあとが全然わかりませんね。
 
 
さて、次回3/3のテーマは「昭和の 大きすぎる・デカすぎる」で行きましょう。
おさがりのグローブやGパン、友達の家、兄貴のスポーツサイクル、山根さんは一言「アンドレじゃろぉ」昭和の頃の“大きすぎる・デカすぎる話”おまちしております!
 
 
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今週は「昭和の写真②」
山根さん曰く「一張羅来て、ええ家の前で写真撮って年賀状に載せてたよな」

昭和の お腹が痛い

2024年02月18日

昭和46年生まれ52歳、高橋裕です。
 
今週は「昭和の お腹が痛い」で30分。
 
 
お腹が痛い といえば、小学生の頃の運動会で徒競走の前になるとちょっと痛くなってました。
運動は好きだったし足もマアマア早い方だったので、あれは「武者震い?」「闘争心の強さ」からだったのでしょうか?
あとは結婚を3か月後に控えてた頃に虫垂炎になり、その時の痛さは半端なかったです。
 
昭和の腹が痛いで思い出したのは、胃潰瘍です。私は新入社員の年に胃潰瘍になりました。原因はハッキリしており、「酒の飲み過ぎ」。
就職して独身寮に入り親元を離れ、仕事は5時終わり給料も貰えるといった環境下、寮は4人部屋だったので同期や先輩達と毎晩酒盛りをしていました。そんな生活をしていたら秋には胃が痛くなり、病院に行くとバリウム検査。結果は潰瘍が出来ていました。
 
ちょくちょくお腹が痛かったけど病院には行かず、「これは学校で飲む牛乳のせいだ」と、自己申告で担任の先生に「僕だけ牛乳を取り消しにしたい」と伝えると、先生は「牛乳は成長に欠かせない飲み物だから、やめるなら病院の診断書か?親の認印が必要」と言われ、家にある認印を僕が勝手に押して提出しました。翌日から僕だけ牛乳がストップしました。それから数ヶ月後卒業式の前日、牛乳代が親に直線返金されて、何も知らない親はビックリしていましたが、結構なお金だったのか?半分嬉しそうでした!
 
もう、昭和の男子は誰もが経験している大問題。便所の大に行けない、行けばあだ名は次の日から「う〇こ」に決まってました。
腹が痛くても、ひたすら学校が終わるのを待つばかり、帰り道、出そうになるのを何度もやり過ごし、やっと家までたどり着いた瞬間、気が緩んでアウトの時もありました。プールの授業がある時が最悪で、お腹が冷えるんで100%痛くなってました。

昭和と言えば「食べ慣れないものを食べるとお腹を下すは常識」で、親父が「デコレーションケーキ」を買ってきまして、4人家族の誰もが食べないので、欲を出してペロリ!するとお腹が急降下!
 
高2の頃、父の転勤で市外に引っ越したのに転校したくなくて、片道2時間かけてバス通してたので、朝食が早いせいか授業中すごくお腹がすいて腹の虫が鳴るんですが、恥ずかしいのでグ~キュルルという音がでないようにお腹を引っ込めたり腹に力を入れたりしていたら、腹筋を使い過ぎてお腹が痛くなり、結局、腹の虫も鳴って無駄な努力でした。
 
 
さて、次回2/18のテーマは「昭和の 腹が痛い」で行きましょう。
食べられるかどうか母親が鼻でチェック、試験中痛くなる、笑いすぎて、電車の中で痛くなるetc.
次週も昭和の頃のお腹が痛くなったエピソードをお待ちしております!
 
 
そして、ご昭和くださいのYouTube動画、毎週水曜日更新です!
https://www.youtube.com/watch?v=39rr1o_nHV4
今週は「昭和の写真」
山根家のご先祖様・ルーツが明らかに!しかも、その情報は実は…。


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