ご昭和ください

ご昭和ください ブログ

昭和のスプレー PART2

2024年07月11日

昭和46年生まれ52才(7月16日で53才)、高橋裕です。
今日は「昭和のスプレー PART2」で30分。
 
前回の毒霧の話で思い出しましたが、
昭和の時代劇を見ていると、けが人が運び込まれると、医者が焼酎を口に含んで傷にプワーッとスプレー状に吹きかけて消毒するシーンがよくありました。ちょっとかっこいいのでやってみたかったですが、今思えば口の中の歯周病菌も一緒にスプレーする感じじゃないかと思うと、はたして消毒になっていたのか心配になります。
 
私の通っていた高校は、入学当時、男子は、丸坊主の決まりでした。一学期の終わり頃、髪型は、丸坊主でなくても良い、校則が、緩くなり、みんな髪型を、7・3分けにしたく、髪の毛が伸びると、無理矢理、スプレーで、ガチガチに固め、7・3分け風に、努力をしていました。ドライヤーをかけすぎで、髪の色が、赤茶色に変わっていました。
 
体育の授業が済んで着替える時、教室のアチコチで8×4をシュッとする人が出始めました。〝いかにも女子力高い〟という感じがするので 私も買って 女子力高い気分になってました。  
 
中学生の頃、制汗スプレーを買いました。レモンの香りでいい感じでした。学校には、扇風機しか無かったし、皆、下敷きで扇いだりしていました。制汗スプレーを使い出して、少しは、快適に過ごす事が出来ました。
 
私が自分用で一番最初に使ったのは、レコードのクリーニングスプレーですかね。
レコードをエンベロープから出してクリーナーを薄くスプレーし、スティックのフェルトでレコードをまんべんなく拭きプレーヤーのターンテーブルへ。ソノシートはペラペラなので、スプレーしたらターンテーブルに置いて回転させながらフェルトで拭いでました。
 
艦の検査修理でドック入りし業者がする乾舷(カンゲン、水面から上甲板の側面部分)、船底塗装で使うスプレー、あれは結構でかいし熟練工のスプレー塗装は早いし仕上がりが綺麗でさすが!
 
私が幼稚園の頃、父親と風呂に入っている時の事です。頭をシャンプーで洗いながら、髪の毛で両側に角を作り、真ん中を少し尖らせて「ウルトラマンタロウだ!」と遊んでいると、父親がおもむろに、スプレータイプのシェービングフォームを手に取り、泡を僕の口の周りに付けて「ウルトラの父じゃの♪」とデコレーションしてくれた事がありました。
私はその事がおもしろく、味をしめ、一人でお風呂に入る時には、決まって「ウルトラの父」に扮して遊んでいました。シェービングフォームが出てくる時の音とか、スプレー缶から泡が出てくる様そのものが面白くもありました。
最終的には「最近減りが早すぎる。もう、髭剃りの泡で遊んだらイケんぞ。髭もシャンプーで作れ。」とクギを刺されたので、以降、シェービングフォームの無駄使いはやめました。子供の頃の思い出です。
 
子供の頃、うちのお袋もそうでしたが、化粧台、三面鏡の前には、やたらと髪を整えるヘヤースプレーが置いてありました、友達の家に遊びに行っても、必ずそのてのスプレーがありました。
おばさんパーマ全盛期の、必需品だったんですかね(笑)
 
学生時代によく使っていたスプレーがありました。コールドスプレーです。当時、運動部で、よく先輩らが、練習の合間に使っているのをみて、自分も使ってみたい!と思い買って使ってました。
すると、ある日、何気にテレビを見ていると、新幹線を掃除するスタッフが掃除道具のアイテムに、コールドスプレーを使用しているのをみて驚きました。当時はよく、新幹線の通路にガムを捨ててあったので、そのコールドスプレーを使用してガムを取っていたのを思い出しました。
 
さて、次回は「昭和の氷」で行きましょう。かき氷はもちろん、氷まくら、ウイスキーの氷、氷の彫刻…etc昭和の頃の“氷にまつわる話”をお待ちしております!
 
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こちらもどうぞご覧ください!

昭和の スプレー

2024年07月07日

昭和46年生まれ52才、高橋裕です。
今日は「昭和の スプレー」で30分。
 
昭和のスプレーと言えば、やっぱり殺虫剤です。
とくに、晩御飯を食べてる最中に、どこからとなく、数匹のハエが飛んできます。手で払いますが、中々逃げてはくれません。
すると、親父が動き始めます。テレビ台の中の殺虫剤スプレーに手が伸びます。
家族はすかさず、新聞紙を数枚広げ食卓を覆うと殺虫スプレーが噴射されます。
薬が浮遊している間、食事は中断します。
5分くらいで食事が再開してました。
 
昭和のスプレーですが、やはりヘアスプレーでしょうか。
中学3年生の時に聖子ちゃんヘアーが大流行。
クラスの中でも、聖子ちゃんヘアーにしている女子がいました。校則違反にならないよう、パーマをかけずに、毎朝くるくるドライヤーでブローして、ヘアスプレーでバリバリに固めて型だけはまさに聖子ちゃん。私は毎朝時間をかける根性も、聖子ちゃんヘアーに仕上げる技量もなく、おかっぱでした。
 
昭和のスプレーといえば、髪をセットしたあとに、固めるミドリの“ケープ”でした。当時は聖子ちゃんカットが流行りで、くるくるドライヤーで外巻きにして、型崩れしないように固めるのですが、あまり近くで吹き付けると白くなってしまい失敗することも、、その後の流行りは前髪をトサカのように立ち上げ、スプレーで固める工藤静香スタイルで、女子には必需品だったと思います。
 
昭和のヘアスプレーは匂いがきつかったです。
母が髪をカーラーで巻いて、仕上げにシューッとヘアスプレーをかける時は、息を止めて他の部屋に逃げていました。
参観日にお母さん達が教室に集まると、全員の頭から漂うヘアスプレーの匂いと、よそいきの着物から漂う防虫剤の匂いが混ざりあってすごかったです。
 
私が中学生の頃、「HONDA CITY TURBO」のプラモデルを作るときに、タミヤのスプレー缶の塗料を使ってみました。初めてだったのもあり、楽しくなってジャンジャン吹き付けて、だいぶ分厚く塗ってしまったのを覚えています。そのあと、乾くのを待てずに、つい塗装面を触って指紋をつけてしまいました。
 
「昭和のスプレー」で思い出すのが、模型等に吹き付けて色を着けるスプレーです。
小学生の頃、「Uコン」が流行っており、近所の空地で飛ばしていました。
当時、兄が「Uコン」のキットを買ってきて作っていました。バルサの木で骨組みを作り、エンジンを取り付け、仕上げにテープでマスキングした部分に「スプレー」で塗料を吹きかけていました。
私は、夏休みの自由研究に、兄が作った飛行機を提出したら、市内の学校の優秀作に選ばれ、金賞を受賞してしまいました。「兄が作った飛行機なのに...」と思いながら、複雑な気持ちでした。
 
噴射式殺虫スプレーと言えば現在ではスプレー缶が当たり前ですが、私が小学生の頃は手動式のハンドスプレーでした。本体がブリキの筒状で先端に白や黄色の薬剤を入れるカップがあり、瓶に入った殺虫剤を買って来て入れピストンの取っ手を前後に動かし噴霧する物でした。
 
さて、次回も「昭和のスプレー」で行きましょう。今週まだまだ出ていないスプレーはあります。番組聴いて“あれもスプレーだったなぁ”と思い出すネタをお待ちしております。
 
なお、7月13日土曜日から夏の高校野球山口大会が開幕します。高校野球期間中は、中継がある場合はお休み、雨などで中継やらない場合は11時半から放送ございますので、ご昭和も高校野球も応援よろしくお願いします。
 
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今週は「昭和のいつの間にか出来るようになっていた事」。
https://www.youtube.com/watch?v=OHJhp3PBrmo&t=430s
逆シングルを披露してくれた少年!うまいぞ!
途中から流れる「第1回 ご昭和フタオープン選手権」もお楽しみください!

昭和の ミイラ

2024年06月30日

昭和46年生まれ52才、高橋裕です。
今日は「昭和の ミイラ」で30分。
 
周南近辺に昔から住んでいる自分と同じ年齢付近の方なら、昭和のミイラと聞いたら、まず殆どの人が毛利プラザで開かれた「インカ文明のミイラの展示」を思い出すんじゃないですか?
 
当時、母が俳優の“岸田 森”さんのファンだった影響で、テレビドラマ“怪奇大作戦”を一緒にみていました。怖がりの私はオープニングとエンデイングは音を消してみていました。(主題歌の絶叫がたまらなく怖かった)
ある回では包帯をグルグル巻きにした男の話があり、一緒に観ていた3才上の姉は“ミイラよミイラ!!”と絶叫したことを思い出します。また、通っていた病院の待合室で、けがをされ、包帯を巻かれた患者さんと目を合わさないようにしたものでした。
 
1960年代にテレビ番組で「恐怖のミイラ」と言う番組がありました。包帯を巻いたミイラが、ゆっくりゆっくり歩くところから番組がスタートしたと思います。見るのが怖いので薄目を開けて見ていました。
 
初代ウルトラマンの第12話「ミイラの叫び」に出てきた「ミイラ人間」が、私の幼い頃のトラウマでした
下半身は包帯が巻かれているのですが、上半身は剥き出しの姿で、人間というよりは「サルの化け物」みたいな造形で、口が裂けてて、目が光ってます。そして、人間を襲うときには、顔をプルプル震わせながら、目から怪光線を発射するんです。
もう、ビジュアルといい、動きといい、トラウマ度数満点でした。それ以降、怪獣図鑑を見るときも、ミイラ人間のページは飛ばして読んでましたし、建物の暗がりに行くと「ミイラ人間が出てくるんじゃないか?」とビクビクしていた事を思い出します。
 
昭和のミイラといえば、怪奇プロレスラーのザ・マミーが思い出されます。確か日本プロレス時代に来日したレスラーで、全身包帯を巻いていていかにもミイラという格好をしていましたが、実力はたいしたことなく単なる怪奇レスラーで終わったと思います。
 
昭和のミイラ、と聞いて、浮かんだのは、『ザ・マミー』という怪奇派プロレスラーのみです。ミイラを英語で言うとマミー、これで覚えました。ミイラはポルトガル語が語源だった気がします。
残念ながら、生で見たことはありません。
 
昭和のミイラで思い出したのは、アニメ『タイガーマスク』覆面リーグ戦の虎の穴レスラー『エジプトミイラ』です!身体中に包帯を巻いていて、身体をバンバン叩いて、目潰し(?)の粉を撒きちらすシーンを覚えています。
 
小学生の時、楳図かずお先生の恐怖マンガ「ミイラ先生」の単行本を持っていました。
ミッションスクールのシスターの姿をした美しい先生がミイラになってヒロインが襲われるみたいな話だったような。
家に遊びに来たクラスメートに貸したままなので今は手元にありませんが。
 
昭和のミイラで思い出すのは、日曜夜のテレビ番組の「知られざる世界」のオープニングで毎週2秒程映し出されるミイラの映像です。
当時はミイラが怖かったですが、怖いもの見たさで見ていました。当時はまだインターネットは勿論、衛星中継や国際電話も滅多にない頃。外国の情報が得られるドキュメンタリー番組が好きでよくみていました。
 
私の地元である青森県弘前市には、昭和の頃、ミイラがおりました。と言いますのも、かつてこの地を治めていた津軽藩の殿様のお墓を昭和29年に別の場所へ移した際、早くに亡くなられた12代目の若様がミイラとなった状態で発見されたのです。そのミイラは毎年、弘前さくらまつりの時期になると一般公開されていて、当時の子供たちの間では、「ミイラを見に行ったかどうか」が、ある種の度胸試し的なステータスとなっていたのですが、私は怖くて行けませんでした。その後、私が高校生になった頃、ミイラは火葬されてしまったので、今となっては、一度ぐらい見に行ったら良かったかなと、ほんの少し後悔しております。
 
先週の放送の最後で山根さんが仰っていた「佐賀のミイラ」は、伊万里市にある「松浦一酒造」の「河伯(かっぱ)のミイラ」のことだと思います。
この「河伯のミイラ」の他、昔の酒造りの道具や農機具・民族資料などが無料で公開されているようなので、佐賀にご旅行の際は立ち寄られると面白いと思います。
 
さて、次週、7/7のテーマは「昭和のスプレー」で行きましょう。塗料、ヘアスプレー、殺虫剤、オイルスプレーetc昭和の頃も色んなスプレーありましたよね。スプレーにまつわるお話お待ちしております。
 
そして、ご昭和くださいのYouTube動画、毎週水曜日更新です!
https://www.youtube.com/watch?v=D9NRlQWMNdM
今週は「昭和の親切②」
山根さんは飲みに行くとき財布を持っていきません、なぜか?どうぞご覧ください。

昭和の 焼きそば

2024年06月23日

昭和46年生まれ52才、高橋裕です。
今日は「昭和の 焼きそば」で30分。
 
昔、ボートレース場内で、客席の上の方で焼きそばだけを売る、ちっちゃな店がありました。肉、野菜なし、具は天かす、削り節、ソース、だけ。シンプルな味でよく売れてました。値段は確か90円か、100円だったと思います。
 
子供の頃、家で食べる焼きそばには、お肉が入っていませんでした。当時、やっぱり家では、お肉は贅沢品。でも、肉の代わりのタンパク質をと考えたのでしょう。代わりに入っていたのは竹輪です。
麺、キャベツ、竹輪、ウスターソースだけのシンプルな焼きそばが「昭和の焼きそば」です。
 
私が小学生の頃には、自宅から歩いて1分もカカラナイ場所におばちゃんが経営してるお好み焼きのお店が2軒並んで営業していました。
ヤキソバが食べたい時は迷わず、200円で安くてウマイ、豚肉代わりにクジラベーコンが入ってる店に行ってました。
 
「昭和の焼きそば」といえば、実家のラーメン店で使っていたゆで麺を使って作った焼きそばです。味付けは、中華スープとしょうゆで、具材はソース焼きそばと一緒でした。"まかない"だったようです。
 
関西に住んでいる時、商店街の中にあったお店の焼きそば。いか、キャベツ、そばをラードで炒めて、舟に載せて、青のり、鰹節、紅生姜。とっても美味しかったです。母が買い物している間、お店で食べながら待っている事もありました
 
焼きそばは家で食べる物だったのですが、中学生になって友達と初めてお店の焼きそばを食べました。
大きな鉄板で焼かれた焼きそばはやっぱり美味しくて感激しました。私の行っていたお店は、楕円のアルミのお皿に盛られているタイプで、私は一番安い野菜のみの焼きそばが好きでした。
その後、そのお店の入っていた商業施設が閉店し、お店もどうなったかわからず、もう2度とたべられないと思っていたのですが、友達があのお店の幟をスーパーで見かけて行ってみると店内の一角でやっていたよ、と教えてくれました。
その幟を見ては立ち寄っていましたが、ある日おじさんに「お店を出さないんですか?」と聞くと、「こっちのやり方の方が楽なんよ。」との返事。
宇部市の昭和世代の方はご存知だと思いますが、店名は南アメリカの大きな河の名前です。
 
昭和の焼きそば、スーパーでソース付きの物を買うと、付いているソースは粉末でした。
粉末ソースは今でもありますが、あえて、よく混ぜずに、あえて味の濃い場所を作るのが好きです。私は粉末派です。
 
さて、次週、6/30のテーマは「昭和のミイラ」で行きましょう。山根さんがコレいいんじゃない♪と言い出したテーマ。今週寄せられた「この番組のおかげで脳みそフル回転で記憶を引っ張り出してます」というコメント通り、記憶を引っ張り出して、「昭和のミイラ」メッセージお待ちしております!
 
そして、ご昭和くださいのYouTube動画、毎週水曜日更新です!
https://www.youtube.com/watch?v=wrrJw6wY__Y今週は「昭和の親切」
“5年くらい冷凍してもらいたい”という山根さんトーク、絶好調です!

昭和の 初めましてPART2

2024年06月16日

昭和46年生まれ52才、高橋裕です。
 
今日は「昭和の 初めましてPART2」で30分。
 
21才頃だったと思います。
友達が親戚の勧めでお見合いをする事になりました。当時、彼女は全く乗り気でなかったので、お見合いについて来て欲しいと頼まれ、他の友達とお見合い場所だったファミレスで少し離れた席から見守る事になりました。
「はじめまして」から、自己紹介などの会話をした後、ドライブに行きましょうと、ファミレスを後にしたので、私達もそこで解散となりました。
その後の話によると、ドライブして食事をして帰ったそうですが、お相手の男性に「友達来てたよね。お土産買って帰ったら。」と言われたそうで、キーホルダーをくれました。今思うと、はじめましての相手が何人も引き連れて来て、とても失礼な事をしてしまいました。本当に申し訳なかったです。
 
高校3年の1年間を理系の男子クラスで過ごした後、大学に入って初めて合コンに参加!!
ワクワク・ドキドキの初めましてのご対面です。
女子の幹事が挨拶をした時(あれ、見たことがある顔だな…)そうです、高校1年で同じクラスだったほとんど話したこともない女子でした。
そのあとのことは、あまり記憶にありません。
特に盛り上がることもなく、お開きになりました。
結局、その合コンが生涯最後の合コンになった還暦おじさんです。
 
友達に誘われてスナックでバイトした時はえらい目に遭いました。
接客が苦手なので無理と言ったら「私が一緒だから大丈夫」と言ってた友達は一日で来なくなり、
一人残された私は辞めるに辞められなくなり、頼りのママもいいかげんな人でいつも遅刻して来るので、店に一人だった時、大勢の外国人が入って来て、何言ってるかわからないし、日本語は通じないし、一人でどうやって接客したのか思い出せないくらいパニックになりました。
カラオケも当時映像が出なかったので、順番バラバラの紙の歌詞カードを探すのが大変でした。
 
私の初めてのアルバイトは、ギリギリ昭和の62年、大学1年生の夏休みでした。
旧山陽町にあるゴルフ場のグリーン改造工事で、私はグリーンサイドのバンカー担当でした。
初めてのバイト、とにかく挨拶だ!と、「よろしくお願いします!」と挨拶しまくったのですが、その中に、かなりのおじいちゃんがいました。
優しそうなおじいちゃんでしたが、その方がバンカー作りの名人という方でした。
『そこは、もっと深く掘れ!』
とか
『そこは、もっと砂を厚く入れろ!』と、的確な指示。
1か月後、『出しにくい、いいバンカーができた』と去っていきました。
この話を地元の友達に話したら、
『あの魔のバンカーは、お前が作ったのか!』
と驚かれました。あれから37年、出にくい魔のバンカーは健在のようです。
 
初めてのバイトは高校2年生の冬でした。父の知り合いから頼まれた正月電報の配達です。
正月電報ってご存知ですか。漁港ならではのもののようで、遠洋漁業で年末年始に外洋で働いている船員さんから、家族やお世話になっている方々への年始の挨拶電報です。
年末に電報配達の人と一緒に回り、配達先を教えてもらい、1月1日に「おめでとうございます。お正月電報です」と挨拶をして配達します。
年賀状ほど配達量も多くなく、お正月と言うことでバイト代も良かったと記憶しています。
 
入社して、配属された部所に挨拶をしに初めて行きました。
すでに、自分が来ると言う情報が行っていたのでしょう、十数人の先輩が椅子に腰掛けて待ってました、自分が「初めまして、この度この職場に配属される事になりました、頑張れ福浦です」と言ったら、一番前に座っていた恐ろしげなおっさんが、「声がこまい!やり直し!」と言って来ました。
なんと、恐ろしい所に来たと、その時は思いましたが、そのやり直しを言われた、おっさんが、その後とてもよく面倒を見てくれて仲良くしてくれました?
 
さて、次週、6/23のテーマは「昭和のやきそば」で行きましょう。ご昭和ください、12年の歴史で初めてのテーマ。夏祭りの屋台、キャベツの芯が多め、ペヤングの湯切りetc焼きそばにまつわる“昭和の”思い出・エピソードお待ちしています。
 
そして、ご昭和くださいのYouTube動画、毎週水曜日更新です!
https://www.youtube.com/watch?v=-kKUOLJEXWI&t=216s
今週は「昭和の隣の県②」
山根さん「レンタサイクルのレンタって何か?レンタルを覚える前に“レンタ”を覚えた」

昭和の 初めまして

2024年06月09日

昭和46年生まれ52才、高橋裕です。
 
今日は「昭和の 初めまして」で30分。
 
その昔、知り合いのご夫婦の奥さんの妹を新南陽から徳山駅の新幹線口まで、たまたま送ることになりました。初対面です。途中車の中で「初めまして」「お姉ちゃん夫婦をよろしくお願いします。」と言われました。その子が今の奥さんです。
 
高校に入って部活に入部する際、初めましてのあいさつと共に一発芸を披露するのが習わしでした。突然、芸をやれと言ってもなかなかいいのが思い浮かびませんが、グラウンドに行く途中でホームサイズ(500ml)のコーラを引っこ抜くタイプの自販機があったので、1本買って持っていき、先輩の前でコーラの一気飲みをしました。一気飲みをしたことがない私は、半分ぐらい飲んだところで噴き出してしまいました。そのリアクションがよかったらしく大盛り上がりだったのを覚えています。
 
「昭和の初めまして」で思い出したのは名刺です。
就職した会社で配属された後に、名刺を1箱(100枚)貰いました。営業職ではなかったので、そもそも「初めてまして」と名刺を出す機会が殆んど無い部署だったのですが、嬉しくて、同級生や同期、親兄弟に配ってしまい、あっという間に100枚が無くなりました。「名刺が無くなったので、追加作成をお願いします!」と上司へ中々言い出せず、半年以上黙っていましたが、結局バレて、「仕事以外で使うな!」とメチャメチャ怒られました。
 
私の父はガサツで大酒飲みの人でした。昭和34年、そんな父に母とのお見合い話が。父の同僚達は「ええか?喫茶店でいきなりビール頼むんじゃないぞ!最初はミルクセーキを頼め!」とアドバイス。甘いもの嫌いな父でしたが、ミルクセーキを頼んだそうです。
 
小学5年のときに転校したのですが、転校先の小学校はマンモス校で、児童の数が前の学校の何倍も多くて、似たような顔の子ばかりいたのです。
昼休みには、大勢で鬼ごっこをして遊ぶのですが、一緒に遊んでいるメンバーの顔が把握できていないので、鬼になっても誰にタッチしていいかわからず、必死で走り回っていた記憶があります。
未だに人の顔を覚えるのが苦手で、初対面の人と会うと特徴を探そうと目を凝らしています。
 
私の父は「転勤族」でして、萩で生まれ、長門、小倉、下関と転校しました。
だから、初めましては体験しましたよ。
母と一緒に、校長室で話をしたりして、教室に向かいます。そして、よくドラマとかである黒板に名前を書いて挨拶します。転校生は、好奇の目でみられ、しばらくは隣のクラスから見にこられたりもします。
そして、初めは教科書がちがったりするので、隣の子にみせてもらったり、、、
私はこの経験から初めての人、場所にもすぐ溶け込めるようになりました。
 
4才~5才の頃、東京の従姉妹の家のトイレが「洋式トイレ」に変わっていて驚きました。和式トイレの様に前向きに座った私を見て「蓋を開けて、椅子に座る様にして使うのよ」と、叔母が笑いながら教えてくれました。
宇部駅に迎えにきていた父に「東京のトイレは、座って使うんよ」と、興奮気味に言ったこと、今も鮮明に憶えています。
父は、さぞ、恥ずかしかっただろうと思います。
 
さて、次週、6/16のテーマも「昭和の初めまして」で行きましょう。新しい世界に踏み入れた、引っ越しをした、中学・高校・就職、部活、習い事、アルバイト。高橋少年は昭和も終わりのS63年、大手スーパーで初アルバイト。子供服売り場で「初めまして」を連発してました。
 
ご昭和くださいのYouTube動画、毎週水曜日更新です!
https://www.youtube.com/watch?v=dCTTFlcNBv0
今週は「昭和の隣の県」遠足、進学、デートetc話が広がってます~。

昭和の いつの間にかできるようになっていたこと

2024年06月02日

昭和46年生まれ52才、高橋裕です。
 
今日は「昭和のいつの間にかできるようになっていたこと」で30分。
 
昭和のいつの間にか出来るようになっていたことで思い出したのは「歌謡曲」です。
カラオケボックスが無かった時代、カラオケはスナックで歌うものでした。見ず知らずの人達の歌を聞きながら、自分たちの順番待ちをしたものです。普段は殆ど聴かない演歌や歌謡曲でも、何回も何回も聴かされているうちに、自然と歌えるようになった曲が幾つも有りました。
「酔っぱっらっちゃった」、「六本木ララバイ」「雪列車」等は今でも私の十八番です!
 
さて、次回6/2は「昭和のいつの間にかできるようになっていたこと」で行きましょう。
九九、スポーツシューズの蝶々結び、水たまりを超えるジャンプetc“いつの間にか”とか“ある日突然”できるようになっていた事ってありますよね。お待ちしております!
 
小学1年生の時、水泳の時間、25m泳げませんでした。夏休みはプールが2時間位開放されていてよく近所のグループで行っていました。もちろん泳ぎの練習はせず遊んでいました。ですが夏休み明けの水泳大会で25m初めて泳げました。遊びながら鍛えられたのかもしれません。
昭和らしいのは、かまぼこ板に、住所氏名を書き、その板を当番の保護者に渡してプールに入ります。帰る時にその板を返してもらいます。
わざわざかまぼこ板を買った年もありました。
 
見よう見まねで、できるようになっていたのは「缶切り」です。
10歳の時、親が留守の時に“桃の缶詰を勝手に食べよう”と缶切りを初使用。
小一時間かかった記憶があります。桃缶、今でも好きです。白桃より黄桃ですね、やっぱり。今の学生のアルバイトさんは、ほぼ100%、缶切りが使えません。そこから教えないといけません。栓抜きも使えない子が多いようです。
 
「フーセンガムで風船を作れるようになっていた」事です。
幼稚園の頃から、味の濃い、甘いフーセンガムが大好きでよく食べていましたが、小さい頃はフーセンがつくれませんでした。
父親や、親戚の叔父さん、お兄ちゃんにガムをあげ「風船をふくらまして!」と懇願していました。
皆が作ってくれる、大きなフーセンや、3連、4連のフーセンに羨望の眼差しを向けていたものです。
作り方を教えてもらっても、中々上手くいかない時期が長く続いていましたが、気が付いたらできるようになってました。それがいつ、何歳の頃かはハッキリ覚えていませんが、初めてフーセンが出来た時の「嬉しい気持ち」だけは心に残っています。
 
さて、次週、6/9のテーマは「昭和の初めまして」で行きましょう。そろそろ、新人さんが現場にデビューする頃、中学・高校・就職、部活、習い事、アルバイト。昭和のころの「初めまして」の思い出・エピソードお待ちしております!
 
ご昭和くださいのYouTube動画、毎週水曜日更新です!
https://www.youtube.com/watch?v=sYUqZRH-vPU
「このタイヤは喰いつきがええ~というヤツがいるが喰いつかんタイヤを見たことが無い」という山根さんの顔をご覧ください!

昭和の 親切2

2024年05月26日

昭和46年生まれ52才、高橋裕です。
 
今日は「昭和の親切 PART2」で30分。
 
自転車を乗り始めた頃、近所に自転車のパンクを直してくれるおじさんがいました。おじさんのところに自転車を持っていくと「またパンクしたんか」チューブを水につけ空気が漏れている所でぶくぶく泡が出ます、そこを軽石でこすり、ゴムのりを塗り、丸く切ったチューブを貼り、木槌で叩きなおしくれました。何回も持っていくので、いろんな形のチューブの切れ端が貼ってありました。
 
昭和52年までは「学校の1クラス分の数の同級生がいる社宅」に住んでいて、そこには共同風呂がありました。
当時としては珍しかった双子の赤ちゃんがいるお母さんがゆっくりお風呂に入れるようにと、赤ちゃんたちを、次々にお母さんが洗うと、その赤ちゃんたちを湯船に入れて上げる親切なおばさん達が必ずいました。そして脱衣所で赤ちゃんを受け取り、タオルで拭いて服を着せて上げるおばさん達がいて、何人かのおばさんたちの親切が当たり前のようになっていました。私も母と一緒に服を着せて上げたり哺乳瓶の湯冷ましを飲ませたりしていました。
 
台風で3日くらい停電したことがあって、電気炊飯器の我が家はご飯が炊けませんでした。
それを見ていた隣のおばあちゃん、
「これを食べなさい」と、ガス炊飯器で炊いたご飯を釜ごと持ってきてくれました。
炊きたてのご飯は美味しかったです。
 
昭和37年生まれの夫が大学生の時、後楽園球場でチケットのもぎりのアルバイトをしていました。
試合前には打撃練習があり、ファウルボールが観客席に飛ぶと注意喚起するのも仕事の1つでした。その日の夫の担当は1塁内野席で、観客もまばらだったのですが、たまたまファウルボールが飛んで来て、落下地点付近に女の子がいるのに気付き、夫は一目散に走って右手で捕球!座席の背もたれで右太腿を強打してしまいました。夫のとっさの親切で女の子は無事。でも、痛い!
その時、グランドから「ナイス!」と声がして振り向くと、何と当時の王助監督ではありませんか。
夫は痛みを忘れて立ち上がり、バイトの帽子を脱いで、最敬礼したそうです。王助監督は笑顔で右手を上げられ、ライト方向へ歩いて行かれました。
その後、1週間は捕球した右手と強打した右太腿の腫れがひかなかったそうです。
 
小学生の時に急に「小さな親切運動」というのが始まりました。クラスで「小さな親切」をした人を発表する時間がありました。みんなの前で褒めてもらおうとして、今思えば取ってつけたような行動をしたり、人の目を気にしていた時がありました。 
 
親父は出張が多く会社のライトバンで日本各地に出向いました。
ある晩、遅めの時間、某県内をライトバンで走っていると“ネグリジェの女性”がヒッチハイクをしていたらしいのです。
親父が声をかけると「旦那と大喧嘩をして家を出てきた」との事。お願いだから自分が言う所まで乗せて行って欲しいと。
そりゃあ大変だと親父は乗せたみたいですが…その話を家の居間で得意気にしていたのを聞いた母親がムッとして「何それ!?そんな人を乗せることないわよッ!」と、しばらく抗議するようにグチグチと怒っていたのを未だに覚えています。
子供だった私も〈夜遅く〉〈ネグリジェ姿の人妻のヒッチハイク〉というワードに何かモヤモヤしたモノを感じたのですが、子供だったのでそのモヤモヤの正体はよく分からなかったんだなぁ。
ま、わざわざ家で言うぐらいだから、やましい事はない、純粋に親切だったのでしょうね。
 
さて、次回6/2は「昭和のいつの間にかできるようになっていたこと」で行きましょう。
九九、スポーツシューズの蝶々結び、水たまりを超えるジャンプetc“いつの間にか”とか“ある日突然”できるようになっていた事ってありますよね。お待ちしております!
 
ご昭和くださいのYouTube動画、毎週水曜日更新です!
https://www.youtube.com/watch?v=Zax9O08TEdI
「昭和の見た目」
エフエム秋田で我らがご昭和くださいが紹介されるなんて…という展開も!!

昭和の 親切

2024年05月20日

昭和46年生まれ52才、高橋裕です。
 
今日は「昭和の 親切」で30分。
 
当時のお隣さんにして頂いていた、「電話の取り次ぎ」です。
我が家に電話が来たのは周囲よりだいぶ遅く、私が小学一年生の時の昭和51年でした。
それまでは、幼稚園や学校からの電話連絡など緊急を要する時は、お隣さんの電話にかかってくるようにして、わざわざ取り次いで貰っていました。
当時、二軒長屋の借家に住んでいて、お隣さんとは家族ぐるみのお付き合いをしていました。隣のお兄ちゃんには良く遊んで貰っていて、おじさんもおばさんも凄く親切。そんな良い関係だったので、電話を取り次いで貰えていたんだと思います。
私が小学に上がった時、姉はすでに中学生。学校からの連絡も増え、さすがにそろそろ電話を引こうとなったらしく、ようやく我が家に電話が来ました。当時は電話の加入権がまだ高価だったので、親も苦労したんでしょうね。
 
小学校の給食のコッペパンを、その日、用事等で休んだ児童の家まで、近くの家の同級生が持って行っていました。人数も今より多かったので出きたのかも分かりませんが、貧しい良き時代の小さな親切ではないでしょうかね!
 
私が幼い頃、おばあちゃんとお出掛けするため、バス停近くのお店でアイスを買っていたら、いつも10分ぐらい遅れるバスが定刻通りに到着したので、慌ててアイスの会計を済ませて急いでバス停に行きましたが、既にバスは出発していました。
おばあちゃんが急いで手を振りながら追いかけたら親切な運転手がバスを停めてくれて乗ることが出来ました。
 
昭和37年、我が家にはまだテレビがありませんでした。
私と姉はお隣の家に夕方の子ども番組を見せてもらいに行ってましたが、ちょうどごはん時なので、お隣の家のかたが親切に私達にも晩ごはんを出してくれたことがあって、次の日から私と姉は母の作ったお弁当を持ってお隣にテレビを見に行くようになりました。
今思えば弁当持参でテレビを見に行くのもなかなか図々しかったような…
 
昭和50年代頃、私が住んでいた大阪でも南の地域には親切というかおせっかいなおばちゃんが大勢おられました。
「いてるぅ~?」と声がした時には、もう家にあがって側まで来ていてビックリしたものです。
最初は少々戸惑いもありましたが、しばらくするとすっかり慣れて、そんな大阪のおばちゃんには育児などで随分助けられたなぁと思います。
ここ山口には、特に最近ではそんなおばちゃんは少なくなったのではないかと思います。
いい意味で、おせっかいな人生の先輩になれると良いなぁと思っています。
 
昭和の優しさと言えば、相手の受け身の技術の能力によって、バックドロップの投げる角度を変えていたというジャンボ鶴田さんでしょう!
あと、せっかくサーベルを口にくわえて来たのに、刺したりしないで、柄(つか)で殴るタイガー・ジェット・シンさん!これぞ、究極の優しさかと!
 
さて、次回5/26も「昭和の親切」で行きましょう。
山根さん曰く、もっとスケールのでかい親切話がないものかぁとリクエストしてますが、ちょっとしたものでも構いません、昭和の頃の親切話、お待ちしております!
 
ご昭和くださいのYouTube動画、毎週水曜日更新です!
https://www.youtube.com/watch?v=R-hZFmzn2UI&t=41s
「昭和の故障②」
かくれんぼしてると忘れさられる…。
子どもは小さな穴を見つけると大きくしたくなる…。

昭和の 隣の県PART2

2024年05月12日

昭和46年生まれ52才、高橋裕です。
 
今日は「昭和の 隣の県 PART2」で30分。
 
昭和の隣の県。
最初に行ったのは、島根県の津和野です。祖母の家が山口駅に近くにあり、よくSLを見てました。ある年の夏、大阪の従兄弟達と津和野に行く事になって、SLに乗り、車窓から流れる黒煙、忘れた頃に鳴る汽笛に興奮していたのを覚えています。
写真は、仁保駅だと思います。
なぜだか自分はライオンズ、弟は近鉄の野球帽です。
 
隣の県といいますか、青森県の私にとっては、隣の道(どう)、すなわち北海道の話になります。
私が小2だった昭和62年の春、父がいきなり「函館へ行くぞ!」と言い出したのです。
理由は、次の年に廃止が決まった青函連絡船に乗るためでした。
父と私は弘前駅を始発で出発し、青森駅から連絡船へ。船内はまるで祭りのような雰囲気で、野生のカモメやイルカが現れると歓声が上がり、竜飛岬が見えてくると、誰からともなく津軽海峡冬景色の大合唱。
そこから函館をひと通り観光し、夜の便で青森に戻って深夜に帰宅するという弾丸旅行でしたが、最初で最後の青函連絡船、そして初めて見る県外は、何もかもが目新しい物ばかりでした。
 
昭和の終わりに3年間広島に住んでいました。先週の放送のナタリー遊園地で思い出したのは、冬は屋外スケートリンクがあったのです。当時はまだ温暖化とは無縁で、遊びに行った日は雪が降っていてリンクに雪は積もっているし風も冷たくて幼稚園児の娘が寒さに泣き出したので早めに引き上げて帰りました。
 
「昭和の隣の県」で思い出すのが、愛媛県の大野ヶ原です。
中学生の頃、家族全員で行った最初で最後の旅行でした。朝早く出発し、柳井から松山へ、初めて車でフェーリーに乗りました。大野ヶ原で1泊、松山で1泊の2泊3日の旅でした。大野ヶ原の明け方に見た雲海と日の出は忘れられません。
既に、両親は他界しているので、この旅が最後だったんだなーと思い浮かべました。
 
お隣の県ですが、小学6年生の時の修学旅行が広島でした。バスで広島県に入ると、ランボルギーニカウンタックが走っていて、男子は「すげー!かっこいい!」と大興奮でした。当時お隣の県では、山口県では見かけないスポーツカーや外車が走っていて、都会だなとつくづく思いました。田舎の県あるあるでしょうか。
 
田布施町に住んでいた昭和56年前後の話です。
測量士補資格取得の為、受験地の広島へ。(この年は不合格。翌年合格)。
試験後に友達と、『ひょっとしたら“サテライトNO.1”の生録が見れるかも?』ってことで大慌てで第一産業に向かいました。
着いたところものすごい人だかり。。。
デビュー時の“中森明菜”さんがキャンペーンで来店していたのでした。結局、もみくちゃになりながら、後ろ姿しか見れずに、『山口には、アイドルこんよのぉ~!!』と帰りの電車で愚痴ったものでした。
 
さて、次回5/19は「昭和の親切」で行きましょう。
近所にいた親切なおばちゃん、坂道のリヤカーを押してくれる少年、デパートの入口のドアを開けて譲ったらしばらく次々にお客さんが入りつづけたetc昭和の頃の親切話、お待ちしております!


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