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昭和の 私が見たお金持ちPART2

2024年10月13日

昭和46年生まれ53才、高橋裕です。
今日は「昭和の私が見たお金持ちPART2」で30分。
 
このお題で直ぐにピンと思い出したのは、僕が保育園年長の頃(昭和45、6年)に、ひとつ年上のお友達のお家に招かれたことです。カルチャーショックを受けたのが、テレビで何インチかは覚えてないのですが、家具調で回すチャンネルが見当たらず、ここだよってボタンを押すと“ひょこっ”と、リモコンというものが飛び出したのには驚きました。
この子の家は銀行の支店の裏に繋がってる一軒家で、お父さんが支店長をされてたので、あとから納得いたしました。
 
昭和40年代の7歳から17歳まで岩国に工場のある社宅に住んでいて、南社宅、中社宅、北社宅というのがありました。
南社宅は部長級以上の偉い人の家族が住んでいて、中社宅、北社宅の子供たちは「失礼があったらいけないので遊んではいけない」という暗黙のルールがありました。
ある時、父の上司の娘さんが私と同じクラスになり、その同級生が私とどうしても遊びたいということで家に招待されました。その家には、もちろん子供部屋もあり、ピアノがあったので弾かさせてもらいましたが「ねこふんじゃった」しか弾けず、その友達にくすっと笑われてしまいました。とても優しく穏やかでおしとやかな子で、何度も遊びにおいでと誘われましたが、私は男の子と外で遊ぶほうが楽しかったのでもう二度と行きませんでした。
 
中学生のとき、ひな祭り会に呼ばれました。クラスの女子が十人くらい呼ばれたと記憶しています。
Kちゃんちの雛人形は、広い一部屋を占領していました。どでかい雛壇にどでかい人形がところひしめき、嗚呼おひめさまとはこんな人のことを言うのだと思いました。庭は日本庭園で石とかありました。押し入れにはギッシリとマンガ本。ベルばらを全作読みました。
 
小学五年生の時に一番仲が良かった友達からお誕生会なるものに誘われました。
生まれてこの方、誕生会なるものがこの世にある事すら知らなかった自分は、お袋にその事を言うと、当日、何やらタンスから真新しい制服を出して来て着せられ「家に行ったら、これを親にこれを渡しんさい」と菓子折りをもたされました。
また「あんまり早う行って、家の前をうろうろせん事よ」と言われました。
友達の家に行くと、見慣れない外車があり、居間にはシャンデリア、棚には洋酒のビンがならんで、見るもの全てが異次元でした。
 
昭和も終わり頃でしたが、鍼灸の訪問治療をしておりました。その頃、友人が兵庫県の芦屋川沿いで画廊を経営しておりました。絵が好きなこともあり、時々遊びに行ったりしていましたが、そこで芦屋や西宮夙川のお金持ちの患者さんを紹介してもらい、数年の間訪問したことがあります。
日本でかなり有名な〇〇産業の会長夫人を毎週治療していましたが、ご主人は別の所に住んでいて、芦屋川沿いに大名屋敷を移築し、そこに住まれていました。今でもありますが、玄関前にバスも駐車出来るようなスペースがあり、とても大きなものでした。また、ある時、クラシック音楽が好きなのでと、会長の就任祝いに会社から贈られたというステレオセット(当時200万円くらい)がいらないからもらって欲しいと言われ、ありがたく頂きましたが、車に一度に乗せることは出来ませんでした。また、ある銀行の会長のお母さんは石油会社の××興産の出で「実家が松阪市で重要文化財に指定されたからと、その隣に新たに家を建てて、それを眺めながら暮らしている」とか、「天王寺にある家には藏が三つくらいあって、ご主人が亡くなってから中の骨董を適当に売り払ったら数千万になった」そうです。
 
さて、次回10/20のテーマは「昭和の逃したチャンス!」で行きましょう。ハワイに行けたかもしれない、あの時あそこの土地を買っておけば今頃…、あの時きちんと告白していればetc後悔先に立たず、皆さんの昭和の頃の逃したチャンスをお待ちしています!


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