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昭和の 大島周防大島公開収録

2024年11月24日

昭和46年生まれ53才、高橋裕です。
今日は11/17(日)に周防大島で行われた公開収録の模様をお届けしました。
いかがだったでしょうか。
島内・島外からたくさんのリスナーさんが大島文化センターに大集合。
藤本町長をゲストに、橋やミカン狩りの写真もたくさんご紹介しながら、大島話で盛り上がりました。
 
23才の頃のことです。大島大橋が架かる時に山口市から見に来ました。大きなクレーン船に橋が吊り下げられて、大島と大畠の間の海峡にゆっくりと入ってくるのを見ました。橋の色は「ポモナグリーン」という色だと聞いて、今でもよく覚えています。POMONAはりんごという意味だそうです。
 
昭和49年頃だったと思います。
大島大橋の工事で、大きなクレーン船が、大橋の一部、大島側の橋の部分を吊り下げて、
現場に来て、橋を橋脚にのせる工事が行なわれました。この日、大島商船では、授業を休みにして、みんなで工事の見学に行きました。
昭和46年に商船に入学する時は、大畠港から小松港に国鉄連絡船で大島に行きましたが、
昭和51年に卒業する時には、大島大橋を渡って車で行くことができました。
 
昭和51年小学4年の時に大島大橋が開通しました。それ以前は、小松港から大畠まで連絡船が通っており、女性が車の免許を取っての最初の難関は、渡船に車を乗せることだと聞いていました。
大島側と大畠側の橋がドッキングする日は、学校行事で見学に行きました。当時の新聞に私の作文が掲載されました。
 
「橋の料金所のおじさん」のお話。
渡しの職場の同僚に周防大島在住の女子がいました。
いうなれば「料金所」は「関所」。
毎日通っていれば、やはり料金所の人とは顔見知りになりますよね。
特に私の同僚は可愛かったので、遅い時間に帰れば「今日は遅いじゃ」とか
休日には「どこに行くん?」とかチェックが厳しかったそうです。
そんな毎日をうっとうしく思っていた彼女でしたが、
料金所が最後の日にはそのおじさまにいままでありがとうと「花束」を渡しに行ったそうです。
 
昭和47年、中2の夏休み、学校の宿泊訓練で周防大島の海洋訓練所に行きました。
みんな海水浴気分で行ったんですが、ビックリ。クラスごとに厳しい教官がついて、いきなりカッター訓練でビシビシしごかれ、手は豆だらけ、全身日焼けと筋肉痛でボロボロになりましたが、3日目の帰る日には様(さま)になってきて、クラス対抗のカッターレースで、クラス皆のチームワークで優勝した思い出があります。
当然、大島大橋はまだ無い頃で、フェリーで帰る際、紙テープで厳しかった教官達と涙のお別れしました。
 
私が中学生の時、大島海洋訓練所へ臨海学校で お世話になり、その当時は、俳優の森田健作さんが大人気の頃でして、大島商船の学生と大学生が 指導員で…その中にちょっと“森田健作似”のお兄さんがいて、明らかに意識して森健カットにしてた と思います。訓練は結構厳しかったのですが、女子は、みんな“目がハート”になっていて、男子は 不満そうだったのを思い出しました。夏休みが終わり登校したら、臨海学校の話しで盛り上がり、 数人の女子が手紙を出したとのことでした
 
約40年前、小学一年生の頃、
親戚と家族の計6人でみかん狩りに行った思い出があります。
みかんの木には、綺麗なオレンジ色に実った、実がたくさん付いていて、根本にはワラがたくさんひいてあって、ふかふかで、踏むと中からコオロギがたくさん出てきました。
目の前は、瀬戸内海の海が太陽の光でキラキラと輝いていて、それを見ながら食べたみかんは格別に美味しかったものです。
この事を書いた作文は、学校で賞をもらったので、
とても良く覚えています。
 
ホントに盛沢山の30分でした。
さて、次週12/1もテーマは「昭和の大島」で行きましょう。いつものようにスタジオ収録でお送りします。
 
そして、ご昭和くださいのYouTube動画、毎週水曜日更新です!
https://www.youtube.com/watch?v=Pjs6haq54C0
今回は「昭和の私が見たお金持ち」
山根さんがマネする近所のおばさまトークが聞けます!


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