ご昭和ください

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昭和の 毛糸PART2

2025年02月02日

昭和46年生まれ53才、高橋裕です。
今週は「昭和の毛糸 PART2」で30分。
 
うちの親父は昭和41年、山口市で手芸店を始め昭和49年に少し商売替えするまで「手芸用品販売と手芸教室」をやっていました。
もちろん毛糸の販売と手編み教室もあり、店内は色んな色の毛糸がありました。
そんな僕の小学時代のあだ名は「毛糸屋」でした。
家に来ていた手編み教室の先生が、練習がてら、僕のセーターや毛糸のパンツを作っていましたが、あまり好きではなく、ヒーロー物のトレーナーが着たかったです。
 
小学生の頃、父親とゴム動力の飛行機をよく作って小学校の運動場で飛ばしていました。遠くまで飛んでいくと2階建ての学校の屋根に引っかかるので、父親が毛糸でソフトボール位の玉を作りその先に毛糸をくくりつけて屋根に投げて引っ掛けて落としていました。私は、「右・左」と位置を指示する係でした。
 
私の家は狭い都営住宅で、父、母、私、2歳年下の妹の4人で暮らしていました。
昭和40年前後でしょうか、我が家には編み機があり、母が「ガーガー」と音を立てて編み物をしていました。編み機のそばにはたくさんの毛糸がありました。別に仕事ではなくて、趣味だったようです。
昭和53年3月、小学校の卒業式で着た服は母親が編み機を使って編んだ「真っ赤」なセーター。目立ちましたね。家族にカープファンがいるわけでもないのに、卒業式になぜ「真っ赤」なセーターだったのか、今でも都営住宅に住んでいる母に聞いてみようと思います。
 
小学生の頃、母が小さめのキューピー人形に毛糸で、帽子やワンピースを作って着せてました。売りに出すんかなぁくらい、何体も。今も実家に眠ってるであろうキューピー人形。かわいかったなぁ。
 
私が小さな時分は、私用の毛糸のパンツを母が編んでいました。何だか格好悪いので私は嫌だったのですが、身体が冷えるからと幼稚園に行く時などに無理矢理に穿かされていました。毛糸のパンツ、今思い出しても何かカッコ悪いなって思います。お母さんごめんなさい!!
 
昭和の毛糸といえば毛糸のパンツです。下着の上に穿く防寒着です。当時は、女子のほとんどが小学一年生くらいまでは穿いていたと思います。
縞々やカラフルでした。穿かなくなったきっかけは男子からの「毛糸のパンツ穿いてらぁ!」のからかいだったような気がしています。
当時は傷んだセーターなどをほどき子供用のセーターやベストに編みなおしていました。その時余った毛糸を合わせて編んだのが毛糸のパンツでした。自分で穿くというよりも親に「寒いから穿きなさい」と言われていた記憶があります。
 
昭和の時代、子供の衣服は殆どお下がりでした。兄が着て私の物になった頃にはかなり傷んでおり、毛玉が出来たり肘が薄くなったりするので、母が、毛糸を解いて編みかえてくれました。セーターの毛糸を解くと、糸がラーメンの縮れ麺のようにチリチリになるので、沸騰して湯気の出ているヤカンの注ぎ口に縮れた糸を通して伸ばしてから編んでくれました。糸が足らなくなるので袖は違う色になったりしました。今は、編み替えるなんて、まずしないですね。
 
さて、次週は、「昭和の親父との思い出」で行きましょう。頑固、一升瓶がよく似あう、将棋が好き、おが屑の匂いがする、手にあかぎれ、相撲と民謡とマグロの赤身が好きetc高橋少年の親父のことです。
皆さんからも、昭和の親父との思い出・エピソードをお待ちしております!
 
そして、ご昭和くださいのYouTube動画、毎週水曜日更新です!
https://www.youtube.com/watch?v=5K6gc71Otbg
今回は「昭和の街に出るPART2」
ぜひ、ご覧ください~。


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