ご昭和ください

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昭和の 地下PART2

2025年03月09日

昭和46年生まれ53才、高橋裕です。
今週は「昭和の地下PART2」で30分。
 
昭和55年、大学入試のため名古屋に行き、そこで市内中心部、栄の地下街に入ってびっくり。沢山の店が建ち並び地下鉄の駅があり地下鉄が容赦無く走っていました。
そして金融機関、デパート、その他の建物に、街の人は、地下から出入りして地上に上がったり、考えられない行動していらっしゃいました。
 
岡山の地下には驚きました。一つの街がありました。地下に入ると、もうどこを歩いているのか分からなくなります。階段を上がった先がどこなのかまったく分かりません。
夫は単に私が方向音痴だからといいます
 
昭和47年に宇部から短大受験の為に、生まれて初めての一人旅で兵庫県西宮市にある大学へ向かいました。当時の親は受験に付いて来ることはありません。新幹線も全線開通していませんでした。父との約束は「駅員さん以外の人とは喋らない」でした。国鉄・三ノ宮駅を降りて駅員さんに、阪神電車の乗り場を尋ねると「そこ」と目の前を指さしておしまい。「そこ」に行ってみても駅なんてありません。不安で泣きそうだったけど、取り敢えずバス停に並んでいたら“田舎娘の様子”に気付くいてくれたおばさんが行先を聞いてくれて教えてくれたのは、今、立っている所の「そごうデパートの地下」。ビックリしたというものではありません。デパートの地下を電車が走ってるんだなんて。
 
昭和40年代前半、新宿西口の再開発がされる前の話で淀橋浄水場があったころです。新宿コマ劇場の地下にアイスケ-ト場があり、会社の同僚に誘われ通いました。『手すり磨き』から始まり、バックで滑ってのナンパまで、又、終了後は「ションベン横丁』で安酒でダベリ、始発で三鷹の独身寮に帰り、少し休憩後、会社に出勤していました。
 
宇部の中心地に地下のお店「ピーター」がありました。社会人になったばかりで、年上のお兄さん、お姉さんに連れてきてもらっていました。
地下、お酒、踊り、は未知の世界でドキドキものでした。音楽は忘れましたが当時の流行りの踊りだったのでしょうか、皆で手を繋いで横に並び、前に行ったり後ろに下がったりの踊りでした。
 
小学校の修学旅行で、山口と九州をつなぐ、海底の地下トンネル、関門トンネルを、生まれて初めて歩いて渡りました。ちょっと薄暗いトンネルの中をみんなで歩き、途中、山口と九州の境界線がありました、海底の地下を歩いとるんだ、すごいと、思いながら歩きました。
 
昔の徳山駅には地下一階がありましたよね。そこにあった軽食屋さんのお好み焼きと焼きそばが美味しかったです。お昼時には待ちがあったですね。
高校生の頃によく利用しました。徳山駅のいまでいう北側から海側に行くのは地下道でしたから 懐かしいですね。
 
さて、次週3/16のテーマは「昭和の背番号」で行きましょう。昭和の頃、22と言えば田淵!24と言えば中畑でしょう。ちなみに、高橋少年が少年野球で初めてもらった背番号は「45」。ちょうどそのころ、西武ライオンズのテリーがつけていたなぁ。野球に限らず、サッカー、バレーボール、バスケetc昭和の頃の背番号にまつわるエピソード・メッセージをお待ちしています!
 
そして、ご昭和くださいのYouTube動画、毎週水曜日更新です!
https://www.youtube.com/watch?v=8Dj5wO4Fum0
テーマは「昭和の毛糸」
山根さんのカウチンセーターは高価!モノが良いです!ご覧あれ!


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