ご昭和ください ブログ
昭和の 親父の思い出PART3
2025年02月23日
昭和46年生まれ53才、高橋裕です。
今週は「昭和の親父の思い出 PART3」で30分。
私が社会人になり仕事から帰ると、私の帰りを待っていたのは食事前の父でした。姉2人は結婚して家を出てて兄は県外に就職、2人の妹は高校生と中学生。毎日晩酌する父は、唯一、お酒が呑める私の帰りを待ってたのです。私は大して呑めませんが、父からすれば父の話し相手晩酌相手?にはなっていたのだと思います。私が嫁いで行くとき、前日に、「辛くなったら直ぐに帰って来いよ」と言った父の言葉が今でも心に残っています。
高橋さんが「何とかの一つ覚え」と言って、お父さんとのステーキの思い出を語られたのを聞いて、私も父の「一つ覚え」を思い出しました。
タバコはエコー、服はタバコが入れられるように胸ポケットがついたもの、髪型は七三分け、誕生日にはカレーライス、チョコレートはホワイトチョコレート、すべて絶対の一つ覚えでした。こだわりの強い頑固な人でしたが、それであれば機嫌のよい分かりやすい人でもありました。
自分の親父は自分が生まれる前にタンカーの衝突と言う海難事故で亡くなりました。
ですから、親父の顔は仏壇に飾ってある遺影でしか知りません。
でも、母親が話してくれる親父は、「とてもおとなしくて実直な人だった」と、いつも嬉しそうに話してました。
だから、自分の中では理想の男性像として、今でも親父の様になりたい気持ちがあります。
私の父は、今思えば、当時は週休1日でした。
そんな中、月1回くらいでしたか、徳山に家族でクルマに乗って出かけていたのを思い出します。当時、188号線は大渋滞で、かなり時間が掛かった記憶があります。
週休1日だったから日曜日はゆっくり休みたいと思っていたのかもしれませんが、よく遊びにつれていってくれてたなあと。もう亡くなって今年で6年経ちますが今頃になって感謝です。
私の父は昭和3年生まれ。酔っぱらうと、昔話が始まりました。
父は長男ではなかったので、旧制中学4年生(今の高1)の時に兵隊に志願した事。
入隊した部隊の射撃訓練で1位になり、即、満州に配属され、ロシアの捕虜になった事。
極寒のシベリアで、過酷な重労働に耐えて、草の根まで食べた事。
栄養失調で仲間が次々と倒れた事。
ロシア語を覚えてロシア兵と仲良くなり第一便で帰国出来た事。
舞鶴に着いた時に国から貰った手当で、1番安いタバコを買った事。
いきなり帰宅すると、家族がびっくりするので、電報を打とうとしたら、タバコを買った残りの手当で、電報代が足りなくて着信払いにした事。等々・・・
当時は父の昔話がとても嫌でしたが、父が他界した今は、もっと色々聞いておけば良かったと後悔しています。
煮魚を食べるのが上手な父でした。
箸だけで身を残さず、食べ終わった皿がきれいなこと。自分は箸以外に手を使えば、身を残さず食べれますが、食べ終わった皿はきれいとはいえませんね。
山根さん高橋さんも「とぉちゃん かぁちゃん…」とおっしゃってましたが、
私も「とぉちゃん かぁちゃん」と呼んでいました。
結婚式の前日、両親に「お父さんお母さん、お世話になりました」と挨拶。
その時、初めて「お父さん」と呼んで、私にとっての 一大イベント。父は「そねぇにかしこまらんでも エエぃや」と言いながらも、私以上に照れてたようでした。
さて、次週3/2のテーマは「昭和の地下」で行きましょう。地下街、デパ地下、地下室、地下倉庫、トンネル、地下横断歩道etc昭和の頃の地下の思い出・メッセージをお待ちしています!
そして、ご昭和くださいのYouTube動画、毎週水曜日更新です!
https://www.youtube.com/watch?v=7x0Ts644JTU
テーマは「昭和の林檎」
山根さんのお母さんは、蜜が入ったリンゴが手に入ると「蜜よ~」と自慢してたとか。
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