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昭和の 街に出るPART2

2024年12月15日

昭和46年生まれ53才、高橋裕です。
今日は「昭和の街に出るPART2」で30分。
 
吉敷郡小郡町からすれば、街は山口市道場門前。高校に入学するため、時計専門店に行って時計を親に買ってもらいました。当時、甲斐バンドのヒーローがCMで流れる中、文字盤のガラスの表面が十字にカットされているのが流行りで、なおかつ、文字盤は青だったんですが、ひねくれ者のわたしは色は緑色にしました。
 
年に2回、父親のボーナスが出たあとの日曜日、山口市のデパートの食堂に一家5人で行き、好きなものを食べるのが楽しみだった。
 
中学生になり、色気づいてきた頃。名古屋市の近郊に住んでいました。どうしてもエッチな本が欲しくなり、近所の本屋で買うのは恥ずかしいので、名古屋まで電車で行き初めて地下鉄に乗り、地下にできた書店に行きました。ドキドキしながらも、ミッションは成功で家に持ち帰ることができました。
 
昭和40年に6歳の私は松江市に住んでいました。
たまに一畑百貨店の大食堂に連れて行ってもらって、三色パフェを食べるのが楽しみでした。三色パフェはバニラ、チョコ、いちご味のアイスクリームにウエハスが付いていましたが、私達が食べているテーブルのそばに立ってじーっと見てるよその子供がいて、落ち着いて食べられなかった時もありました。多分、プレッシャーを与えて私達が早く席を立つように、親に言われて立ってたんだと思います。昭和の大食堂は隙あらば座るという椅子取りゲーム状態でした。
 
昭和の街に出ると言えば、広島の中心部、八丁堀、紙屋町、本通り辺りに行くことを街に出ると言ってましたね。
小学生の頃親に「街に行くよ」とよそ行きの服を着て南区から中区の中心部にバスに乗って行ってました。
 
広島市の北部の社宅に住んでいた時、街に行ったら、デパートの手提げバッグを持っていないと「街に行った」と言えない。
 
昭和54年、高校1年の冬のこと。深夜のローカルテレビで映画のコマーシャルを見かけました。山口市にも映画館がありましたが、コマーシャルはテアトル徳山の宣伝だったようで、輝いているイメージを受けてとにかく行ってみたくなり、一人でアガサ・クリスティの映画を見に徳山へ行きました。
在来線の道中、徳山駅に近づいてくると、山口市では考えられなく広い工場があり、煙突の先から火が出ている!「コレが社会の時間に習った周陽工業地帯なのか?」と感激したことを鮮明に覚えています。
 
さて、次週12/22のテーマは「昭和の狭い」で行きましょう。山根さんの下宿アパート、私高橋少年の子供部屋(3畳)、狭い押入れベッド、安い民宿窓を開けたら隣の店の壁が目前、狭い隙間に入ったら出てこられなくなったetc昭和の頃の“狭い”思い出・エピソードをお待ちしております。
 
そして、ご昭和くださいのYouTube動画、毎週水曜日更新です!
今回は「昭和の逃したチャンス」
https://www.youtube.com/watch?v=AaBycBU-ibY
山根さんはどんな話をするにも基準は“怪獣”。今回は“バラゴン”が基準の話が出てきます。


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