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昭和の 一人で遠出 PART2

2025年08月17日

今週は「昭和の一人で遠出 PART2」で30分。
今週もたくさん寄せられました。
 
≪昭和29年生まれのリスナーさん≫
昭和47年、短大の入学金を納める為に現金を持って一人で西宮市に行きました。金額は35万円くらいで大金でした。新幹線も東京、岡山間しか通っておらず急行で行きました。支払いと同時に、制服がある短大だったので採寸などで本人が行かねばならず、親が同行すれば旅費が要るので、私、一人。途中で何事かあってはいけないので、親がお金を下着に縫い付けた袋の中に入れてくれました。支払う時に服をまくって出さなくてはならなくて恥ずかしかったです。
 
≪昭和39年生まれのリスナーさん≫
昭和59年、中型自動二輪免許を取って初めてのツーリングのこと。当時、住んでいた愛知県北西部から国道41号を愛車「RZ250」であてもなく北上するプランです。1時間ほど走ったところで、信号待ちしていると1台のオフロードバイクが並びました。ふと見ると同じバイクショップのステッカー、また、ナンバーがなんと1番違い。年が同じくらいの彼と意気投合して、彼の目的地・下呂温泉に行き、ひとっ風呂浴びました。帰りは一緒に地元に戻った不思議な出会いでした。
 
≪昭和34年生まれのリスナーさん≫
昔、父から伝え聞いた話です。
太平洋戦争末期、父の姉(私の伯母)は兄のいる山形県まで一人で会いに行ったそうです。どういう経路で、どうやって山形まで行ったのかは分かりません。兄と合流して二人で山口に戻る予定でしたが、台風か、集中豪雨の影響で最上川が氾濫し、街中が壊滅状態に。鉄道や道路は崩壊し、家族と連絡も取れず、ただ山口を目指して線路沿いを歩いたそうです。そんな時に兄に召集令状が来て、行方不明と申告するのに、「徴兵を拒んだ脱走ではないか」と大騒ぎになったそうです。そこへ二人が無事帰還。家族みんなで、ほっとしたそうです。線路沿いを歩いたので足の裏は枕木のタールでべっとりだったそうです。その後、兄は出兵し、南の島で亡くなりました。
水害も戦争もない方が良いですね。
 
≪64才のリスナーさん≫
中学2年の夏休みのこと。山陽新幹線が博多までつながったこともあり、1人で長野の祖母の家に遊びに行きました。数日、祖母の家で遊んだ後、宇部に帰る時、長野駅から「特急しなの」で名古屋駅まで戻り新幹線に乗り換えたのですが、当日、台風が近づいていた為、雨がひどく名古屋で乗り換えた新幹線が数時間停車待ちをすることになってしまいました。数時間後、新幹線が発車して新山口(旧小郡)駅に深夜に到着したのですが、当然、在来線は走っておらず、タクシーで宇部市まで帰りました。払い戻しの特急料金はタクシー代で無くなりましたが、なんとか家に帰る事が出来ました。
母親は、「夕方のニュースで自分がテレビに映ったのを見て安心した」と言っていたのを思い出しました。もちろん、名古屋駅のホームで、きしめんも食べました。
 
さて、次回8/24は「昭和の応援」で行きましょう。野球、サッカー、駅伝、運動会、受験、アイドル、応援部、メガホン、法被etc昭和時代の応援にまつわるエピソードをお待ちしています!
 
そして、ご昭和くださいのYouTube動画、毎週水曜日に更新しています!
https://www.youtube.com/watch?v=2V0bTpnnshc
テーマは「昭和の親父の趣味」
突然♪王将を歌い出す山根さんにご注目!

昭和の 一人で遠出

2025年08月10日

今週は「昭和の一人で遠出」で30分。
今週もたくさんメッセージ代の真夜中のお話、たくさん寄せられました。
 
≪昭和37年生まれのリスナーさん≫
広島市で一人暮らしを始めて少したったある日のこと。地図を持たずに感だけで1人自転車旅を決行しました。その時、それまで住んでいたところと違いを感じた事は、川や橋がデカイ事、パチンコ店やお好み焼き屋が多い!などが印象的でした。
さて、ボチボチ帰ろうかなとなりましたが、気まぐれだけで自転車を漕いだので方角が分からなくなり心細くなっていたその時、絶対にあるわけないと思っていた広島駅を遠くに発見!!駅を目指して着いたら、もう安心。そこからは電車道を頼りに正確なルートを通って帰りました。
 
≪昭和46年生まれのリスナーさん≫
小学5、6年生ぐらいの夏休みか、冬休みに、どうしても、校区外にある下関駅近くの映画館に「あしたのジョー2」を観に行きたくなり、母にバス代と映画チケット代をオネダリして、初めて「1人だけでのバス乗車」と「1人だけでの映画鑑賞」を決行致しました。
まぁ、ドキドキした様な記憶は微かに有りましたが、それよりも「あしたのジョー2」での衝撃的なラストに小学生ながら帰りのバス車中でもズッ―と泣いてた事が54歳になっても忘れられない思い出です。
 
≪昭和34年生まれのリスナーさん≫
昭和時代に一人で遠出と言うと、大学の学園祭シーズンの休みに、アルバイトして買った愛車サニーで、友達の住んでいる福岡のアパートまで一人で行きました。当然、携帯もなく、ナビもなく、紙の地図と、「高速の福岡インターを降りてから何km先の〇〇交差点を左に曲って・・・」という友達が書いたメモを頼りに目的地まで何とかたどり着きました。友達へ色々お土産を持参しましたが、米5キロが一番喜ばれました。
 
≪昭和39年生まれのリスナーさん≫
昭和の一人で遠出で思い出したのは、中学時代の自転車と、高校時代の原付バイクです。
中学時代は自転車で、片道1時間以上掛けて釣りに行ってました。
高校時代は原付バイク(クラッチ付)で、ただひたすら国道を何時間も走り、適当な駅で、トイレ&自販機のジュース飲んで帰ってくる、なんてことをやってました。
 
≪昭和43年生まれのリスナーさん≫
私は小学生の低学年の時は全く泳げませんでした。それを見かねた母が、広島のスイミングスクールに通わせてくれた事を思い出します。一人で電車に乗って広島の温水プールに通っていました。大人になって聞いた話ですが、母はバレない様に尾行していたみたいです。
お陰様で、中学生の時は、水泳部に入り県大会に出られる様になりました。母には感謝しています。
 
さて、次回8/17も「昭和の一人で遠出」で行きましょう。大都会に一人で、一人で新幹線で、一人でフェリーに乗ってetc昭和の頃の遠出にまつわる思い出・エピソードをお待ちしています。
 
そして、ご昭和くださいのYouTube動画、毎週水曜日に更新しています!
https://www.youtube.com/watch?v=K3zN6aHvgDk
テーマは「昭和の一生の思い出 PART2」
山根さんのボヤキ「今は何でもスマホで撮るんちゃのう。あんたが何食べようがワシはどっちでもええんよ」

昭和の 真夜中2

2025年08月03日

今週は「昭和の真夜中」で30分。
昭和時代の真夜中のお話、たくさん寄せられました。
 
≪昭和33年生まれのリスナーさん≫
私にとって昭和の真夜中はやっぱり深夜放送。セイヤングの天才秀才バカシリーズを電波の悪い中(私が住んでいた松山は文化放送はなかったので)必死で聞いていました。最後の落ちの時に電波が悪くなり、バンバンの馬鹿笑いで復活するという悪条件の中聴いていました。今でも覚えているフレーズは「大地を揺るがす象のイヤイヤ」
よく聴いていた、オールナイトニッポンのカメ&アンコウのカメちゃんがニッポン放送の社長になったのには驚きました。
 
≪昭和37年生まれのリスナーさん≫
昭和の真夜中で思い出すのが専門学校時代(56年〜57年)広島の繁華街を、深夜同じぐらいの年齢の男が車に乗って同じぐらいの年の女の子に声をかけて、上手くいったら一緒にドライブデートしてました。
ですが今みたいにコンビニもカラオケも無く、うまくいっても岩国までの往復ドライブでした。
でも、知らない女性と色々世間話ができてスマホが無くてもメモ紙で連絡交換などして楽しかったです。
 
≪昭和39年生まれのリスナーさん≫
昭和の真夜中で思い出すのは新幹線の陸上輸送です。大学生になり下宿し始め、はまったゲームは「ゼビウス」。夜中にゲームセンターに出かけては、ランキングトップを目指していました。
そんなある日、ゲームセンター帰りの深夜、目に飛び込んできたのは巨大なトレーラー。新幹線を乗せて片側3車線の大通りをゆっくりと進んでいったのを覚えています。赤いライトに照らされて幻想的でもありました。
 
≪昭和39年生まれのリスナーさん≫
小学生の時の夏休みに、祖父母の家に泊まりに行きました。
大きな畳の部屋に寝ていると、真夜中に、目が覚め、振り子時計の『カチカチカチカチ……』と言う音が気になり、眠れなくなり。更に、仏様を見ると、ご先祖様の写真が、こちらを見ていまして。怖くて怖くて、朝まで眠れませんでした。
 
≪昭和35年生まれのリスナーさん≫
真夜中に移動すれば行った先で朝から色々と見て回れます。東京とかに遊びに行くのに利用していたのが寝台特急や夜行バスです。徳山や小郡から、色んなブルトレに乗りました。「あさかぜ」に「さくら」「富士」など色々でした。客車は二段だったり三段だったりでしたが、やはり上の段をよく取っていました。ブルトレは乗っていて楽しいんで、寝たような寝てないような感じでした。
夜行バスは、当時は二人並んでの席だったので気を遣いながらで、寝た感じはしなかったです。
 
さて、次回のテーマは「昭和の一人で遠出」で行きましょう。ちょっとした冒険、自転車で遠出、街へ出る、おばあちゃん家に行く、ドキドキしながらバスに乗るetc昭和の頃の遠出にまつわる思い出・エピソードをお待ちしています。
 
そして、ご昭和くださいのYouTube動画、毎週水曜日に更新しています!
https://www.youtube.com/watch?v=Gs6B9aJ2pDE
テーマは「昭和の一生の思い出」
山根さんの衝撃は“生ジャイアント馬場”だそうです。

昭和の 真夜中

2025年07月20日

今週は「昭和の真夜中」で30分。
昭和時代の真夜中のお話、たくさん寄せられました。
 
≪昭和39年生まれのリスナーさん≫
昭和の真夜中で思い出したのはやっぱり「ラジオの深夜放送」ですね。
ラジコなど無い時代、リアルタイムで聴くため、
しばしば寝落ちしてましたが、洋楽に興味を持つキッカケとなったりしました。
 
≪昭和29年生まれのリスナーさん≫
昭和の真夜中、といえば中学高校生の頃は深夜放送ですね。中学生の頃は22時頃に一度寝て1時頃に起きて深夜放送を聴いていました。たまに目が覚めず朝まで寝ていたこともありました。当時はこちらの方にはネットされてなかったので雑音が入る中、東京の放送局を聴いていました。曜日によって3つの放送局から選んで聴いていました。
 
≪昭和42年生まれのリスナーさん≫
昭和50年代、宇部市の住宅街に「ナイトショップ○○」という24時間営業の店ができました。当時はまだコンビニなど無い時代で、そのお店はコンビニのような垢抜けた雰囲気ではなく、小規模なスーパーという感じでした。静かな暗い住宅街にコウコウと浮かび上がるその場所は 最初 何の店かわからず怪しげに見え、近付きがたかったです。でも、普通の店だとわかり、夏の夜10時頃、母と散歩がてら行きました。店は40歳くらいの男の人が一人でやっていて、私達はお菓子やアイスを買いました。夜中に出かけるというのはちょっとスリリングで、ウキウキしました。
 
≪昭和43年生まれのリスナーさん≫
自分が玖珂に引っ越しをして来た頃は、近くにコンビニが1軒も有りませんでした。夜遅くに欲しい物が有る時は、ドライブを兼ねて元々住んでいた岩国市の中心部に出かけるか、我慢した記憶があります
 
≪昭和39年生まれのリスナーさん≫
高校生の頃、土曜日の深夜1時から始まる深夜映画を一人で見るのが好きでした。暗い真夜中の静まりかえった夜に見る映画は、結構インパクトがありました。なかでも「ゾンビ」これは強烈でした。
深夜だけあって、怖いながらもストーリー展開が面白く、どういう結末になるのかドキドキしながら見ていました。
 
≪昭和38年生まれのリスナーさん≫
中学生の頃、年に1、2度母親が留守にする日があり、兄貴もいない1人だけの時がありました。
もう、中学生で夜中1人なんて、パラダイスですよね!当時、真夜中には、お色気番組があり、朝から期待に心は燃え上がってました。
しかし、なぜかいつも、番組が始まる数分前に、寝ているんですよね。気が付くとテレビの画面は、砂嵐になってました。
 
≪昭和30年生まれのリスナーさん≫
昭和46年、商船高専に入学して学生寮に入りました。寮は、1年生から3年生までの4人が同じ部屋に入り、3年生は、神様のような存在で1年生には、ほとんど自由はありませんでした。
1年生同士で部屋で話をしたりは全くできない状態でした。このような寮で、真夜中には、1年生が自由になれる場所がありました。寮では、23時に消灯になり、普通の人は寝る時間ですが、この時間に、ラグビー部の1年生は、ラグビーボールを持って、寮の屋上に集まっていました。その日に練習で使用したボールをきれいに磨いていたのです。ラグビーボールは、皮でできていて、磨けば新品のようにきれいになっていました。この時間の屋上には、ラグビー部の1年生だけで、自由に話をしたりお菓子を食べたりできる場所でした。ラグビー部1年生の真夜中の楽園でした。
 
さて、次回もテーマは「昭和の真夜中」で行きましょう。真夜中の電話、徹夜勉強etc昭和時代の真夜中の思い出・エピソードをお待ちしています!
 
なお、夏の高校野球山口大会の期間中は日曜日に実況中継があった場合は、「ご昭和くださいはお休み」となりますので、野球中継をお楽しみください!
 
そして、ご昭和くださいのYouTube動画、毎週水曜日に更新しています!
https://www.youtube.com/watch?v=zkTTkHJ_MJo
テーマは「昭和の私の帽子②」
山根さんは「鉄琴」と聞くと「鉄筋コンクリート」を想像する…
 
また!
今回の放送から、リスナープレゼントのノベルティグッズが新しくなりました!
今回からは、ご昭和ください特製“御礼タオル”。タオルの下に企業名が印刷されている粗品タイプのタオルを作りました。これまで、てぬぐい→ふろしき→2代目てぬぐい→扇子、そして御礼タオル。
ぜひとも、貰ってやってくださいませ~。

昭和の 親父の趣味PART2

2025年07月06日

今週は「昭和の親父の趣味 PART2」で30分。
今週も昭和時代のお父さんたちの趣味話がたくさん寄せられました。
 
≪昭和40年生まれのリスナーさん≫
私が小学生の頃、父は8mmフィルムカメラにハマっていて、家族旅行などでたくさん撮影していました。家族を撮るフリをして必ず通りすがりの若くてキレイなおねえさん達をフィルムに収めていました。帰宅後、父はせっせとテープを切り貼りして編集し、いよいよ家族揃って上映会。
父は自宅でささやかな商売をしていて、夜飲んで遊んで帰ってくるなど全くなかったので、キレイな おねえさん達を追っかけている映像を母も姉も私も微笑ましく見ていました。
 
≪昭和29年生まれのリスナーさん≫
昭和の親父の趣味、それはなんといっても野球ですね、見るのもやるのも好きでした。
高校生の時から軟式野球をやり社会人になってもやってました。見る方は長嶋さん全盛期の巨人戦をテレビ中継で見てましたが、テレビが始まる前と終わったあとはラジオを聴いていました。今、生きていたら試合開始から終了するまで見られるテレビには喜んでいたでしょう。
 
≪昭和42年生まれのリスナーさん≫
昭和6年生まれの私の父の趣味は何と言っても“お酒”で、毎日、瓶ビールと日本酒。母は、一升瓶にマジックで線を引いてお酒の残りを監視し「飲みすぎ!」と注意したけど効果なし。法事の時は最後まで居座って顔真っ赤のベロベロ、新婚時代には、職場の仲間を家に連れて来て飲む。母は、ただでさえイヤなのに「奥さん、ナマスの刺身が 酢でしまり過ぎ」と手作りツマミにクレームを言われ、スゴく腹が立ったと言ってました。
 
≪昭和43年生まれのリスナーさん≫
父は切手収集、絵画、手品が趣味でした。
中でも手品は失敗続き。ユリゲラーを見てはスプーンを曲がらないと文句をいい、「木曜スペシャルに抗議電話する」と言い出すので家族全員で阻止しました。後に、ゼンジー北京さん、伊藤一葉さん、レッドスネークカモンカモンの人に夢中になり、手品の練習をしていましたが、上手にできたのを見たためしがなかったです。
 
≪女性のリスナーさん≫
昭和6年生まれの父は、田端義夫さんが好きだったようで、楽譜なんかは無く、もちろん読めもせず、 耳だけを頼りに中古のギターで「かえり船」を弾いていました。レコードもよく聴いていたので、私も自然に覚え、父の弾く「かえり船」のキーがだんだん変わっていくのが解りました。たまに吹く口笛も同じ音程だったので、よく母は「音痴の人は口笛も音痴なんだね」と言っては笑っていたものです。
 
≪昭和53年生まれのリスナーさん≫
母が生きていたら絶対に投稿していただろうと思い、母の父親の話を投稿します。
母の父は明治44年生まれ、生きていたら114歳。
思い出話でよく母が話してくれました。
川釣りが趣味で手がとても器用で、竿を木で削って作っていたそうです。
釣ったうなぎやナマズ、フナにコイなど、庭の池で上手に飼っていたそうです。
 
さて、次週のテーマは「昭和の真夜中」で行きましょう。山根さんは、24時間営業の店が出来ても最初は昼に行ってたとか。ラジオの深夜放送、徹夜勉強、夜通しドライブ、寝台特急etc昭和時代の真夜中の思い出・エピソードをお待ちしています!
 
なお、今年も7/12(土)から夏の高校野球山口大会が開幕します。日曜日に実況中継があった場合は、「ご昭和くださいはお休み」となりますので、野球中継をお楽しみください!
 
そして、ご昭和くださいのYouTube動画、毎週水曜日に更新しています!
https://www.youtube.com/watch?v=0rjzwu5GgSQ
テーマは「昭和の私の帽子」
「僕は子供のころから頭の鉢が大きく…」って、高橋少年も同じです!

昭和の 親父の趣味

2025年06月29日

今週は「昭和の親父の趣味」で30分。
昭和時代のお父さんたちの趣味は多種多様ですね~。
 
≪昭和29年生まれのリスナーさん≫
大正9年生まれの父は、戦争から無事に帰って来ることが出来た反動なのか、実に多趣味な人でした。スキー ソフトボール 油絵 囲碁 カメラ 長唄 マージャン 日曜大工 たばこのパイプ収集 読書 等々。50号の油絵に始まり、山ほど作品を遺して逝きましたので、行き先に大変困りました。
 
≪昭和41年生まれのリスナーさん≫
私の父は、とにかく歌が大好きでした。朝起きてトイレに入るとすぐ歌声が聞こえてきたものです。
晴れた日には「は~れたそら~♪」と『憧れのハワイ航路』、雨の日には「しとしとぴっちゃんしとぴっちゃん♪」と『子連れ狼』を歌っていました。母に「朝の馬鹿歌はやめーさい!」としょっちゅう怒られていました。
人前で話すのは苦手なシャイな人だったのに、不思議と歌は人前で歌えるのです。家族同伴の社員旅行についていった時もバスの中で気持ち良さそうに歌っていたのを覚えています。
 
≪昭和43年生まれのリスナーさん≫
昭和5年生まれの父は、パチンコ、麻雀、そして父の部屋のタンスの上には、王将の駒、貝殻のオブジェ、木久蔵さんのサイン入り色紙、お土産の置物等がずらりと飾ってありました。部屋も綺麗に片付けていました。20年前に父が亡くなった時に駒と貝殻オブジェを貰い飾っています。今回また父を思い出す事ができました。
 
≪昭和45年生まれのリスナーさん≫
父の趣味は「ゴルフ」でした。
社会人一年生の夏、寡黙で偏屈な上司に連れられて、ルールもわからないまま始めたのがきっかけの様です。
昭和時代、優勝した際のトロフィーと優勝カップの写真を送ります。→HPのネタ写真に掲載
 
≪昭和34年生まれのリスナーさん≫
私の親父は、昭和2年生まれ、趣味は工具集めでした。今で言うDIYのはしりといいますか、床を直したり、棚を作ったりしていました。電動ノコギリや電動カンナがたくさんあり、母からは「同じようなものばかり買ってから!」と文句を言われていました。
ラジオを聴きながら、電動ノコギリを使って、五右衛門風呂にくべる薪を作っていたのをよく覚えています。
 
≪昭和28年生まれのリスナーさん≫
昭和4年生まれの私の父親の趣味は、「古式泳法」(両手に扇子を持ち立ち泳ぎをする等)に始まり、私が小学生の頃は「戸山流尺八」にはまり首振り3年音出し5年と毎日練習していました。その後は盆栽を始めたり、民謡クラブに入って揃いの浴衣を作り発表会に出たりしていましたが、最後はCDを買い漁りカラオケに熱中し94歳で亡くなるまで続けていました。
 
さて、次週7/6も「昭和の親父の趣味」で行きましょう。高橋少年の親父の趣味は民謡と言いましたが、さらに、将棋も良くやってた。親父の兄と一升瓶を片手に朝までやってたとか。
皆さんの親父の趣味にまつわるエピソードをお待ちしています!
 
そして、ご昭和くださいのYouTube動画、毎週水曜日に更新しています!
https://www.youtube.com/watch?v=t9ycJsMDRUU
テーマは「昭和のお見送り」
山根さんは、駅のホームで万歳を受けて新幹線に乗ってきた新郎新婦を祝福したことがあったとか。

昭和の 一生の思い出PART2

2025年06月22日

今週は「昭和の一生の思い出 PART2」で30分。
みんな、貴重な体験があるんですね~。
 
≪昭和34年生まれのリスナーさん≫
昭和の一生の思い出で、まず思い出したのは「流れるプール」です。小学6年の夏休みに、兄2人と一緒に、京都に住んでいた祖母の家に遊びに行った時に、富士急ハイランドに連れて行ってもらいました。なんといっても楽しかったのが、初めて見た「流れるプール」です。大はしゃぎしたと思います。私は泳げなかったのですが、浮き輪を使って何周も何周も流されていました。
 
≪72才のリスナーさん≫
中学3年の2学期、クラスの学級委員長の選挙があり、なぜか私が選ばれました、クラスのみんなが面白がって投票したと思います。学級委員長のバッチを胸につけ、朝礼の時は、クラスの一番前に立ち、2~3週間は真面目にやっていましたが、任期途中で交代となりました。一生に一度の学級委員長の思い出でした。
 
≪昭和40年生まれのリスナーさん≫
下関の短大時代、放送研究部でした。
2年の時、GWに巌流島でコンサートがありまして、なぜか、その司会をすることになりました。
まぁ、つたない司会でした。その模様がテレビ放送があるので放送日と時間を言ってくれと言われたのにあやふやで主催者の方に怒られ、繋ぎの話もめちゃくちゃで、言うことが見つからず鯉のぼりが飾ってあったのを見つけて「鯉のぼりがきれいですねー。」を連呼。散々でした。
ただ、出演者に“かまやつひろし”さんがいて、打ち上げで握手をしていただいたのは良い思い出です。でも、今考えたら、散々の司会だったのによく打ち上げに参加したものですね。若気のいたりでしょうか。
 
≪昭和39年生まれのリスナーさん≫
自分の昭和の一生の思い出は「仮面ライダーカードのラッキーカード」でアルバムを手に入れたことです。
当時、あまり裕福な経済状況ではなく、ジュースやビールの瓶を拾い集めて手にしたお金で、少しずつカード付きスナックを買いました。初めてラッキーカードが入っていた時のうれしさは、今も思い出します。
 
≪女性リスナーさん≫
高校時代、野球部の女子マネージャーはおらず、“どうしても野球部のお手伝いをしたい”と友達3人で野球部長に掛け合った結果、新校舎移転1年目の秋にあった新グラウンド完成こけら落としの練習試合の“場内アナウンス”を担当することになりました。3試合あったので一人一試合担当。私は中学時代放送部で、ラジオでプロ野球中継をほとんど毎日聴きアナウンスの勉強をしていたので、まずまずの出来だったと思います。終わってから外野で観戦していた同級生に、冗談でしょうが「上手だった」と褒められた思い出があります。
こんな体験は二度と味わえないだろうなと今でも思っています。
 
≪昭和29年生まれのリスナーさん≫
小学4年の時、引っ越した日に2階の窓から砂利の地面に顔から落ちました。
新居の目の前は駅でSLが勢いよく走ってきたので手すりに寄りかかって見ようとした瞬間でした。
タンスを運び込むのに手すりが邪魔で片方の釘が抜いてあったのです。骨折はしませんでしたが、しばらくの間、目の周りが真っ青になっていました。
 
≪昭和20年生まれのリスナーさん≫
中1の夏休みに弟も一緒に親父が船長をしていた貨物船に乗って東京へ行きました。瀬戸内海は穏やかですが鳴門海峡を過ぎたあたりから船酔いで船上からの富士山も、竹芝桟橋に着いても、しばらくは目が回っていました。そこで見たのはまさに「ALWAYS 三丁目の夕日」で舞台になった建設中の東京タワー。そう、時は、昭和33年。はとバスに乗って東京を見て回ったのが私にとって最初の大旅行でした。ちなみに6年後に就職で再び東京の地に立った時は東京オリンピックの直後でした。
 
≪昭和48年生まれのリスナーさん≫
私が中学3年生の時、東京の親戚の家に行った時の事です。
明治神宮の近くを歩いていたら、何かのロケをしているのが遠巻きに見えました。「何のロケをしているのだろう?」と近付いて、ふと、横を見てみると、タバコをふかしているオジサンが。
よく見てみると、あの「藤田まこと」さんです!
私は小さい頃から「必殺シリーズ」が大好きで、藤田さんが演じる「中村主水」は特別な存在でした。
私は、すぐさま「藤田まことさんですよね?必殺シリーズが大好きで、ずっと憧れていました。握手してください」とお願いすると、笑みを浮かべながら「ああ、ありがとう。君みたいに若い子でも観てくれてたんだね」と、気さくに握手に応じてくださいました。
「はぐれ刑事純情派」のロケの最中だったのですが、「もう必殺シリーズはやらないんですか?」と尋ねると、「うん、もう、やらないと思う。だから今度は刑事ドラマを楽しんでね」との返答でした。
ずっと憧れを抱いていた藤田まことさんに、東京の街の中で不意に出会い、握手して頂き、会話を交わせた事が、私の中の昭和の一番の思い出かもしれません。
 
さて、次週6/29は新しいテーマ「昭和の親父の趣味」で行きましょう。親父シリーズ第2弾。高橋少年の親父の趣味はずばり“民謡”。上棟式などの後の宴でみんなに歌声を披露していたとか。
次週は、皆さんの親父の趣味にまつわるエピソードを教えてください!
 
そして、ご昭和くださいのYouTube動画、毎週水曜日に更新しています!
https://www.youtube.com/watch?v=s1e1E2K_KsM
テーマは「昭和の海外テレビドラマ」
皆さんのニッチな思い出話がいっぱいです。

昭和の 一生の思い出

2025年06月15日

今週は「昭和の一生の思い出」で30分。
先週、番組のラストで、高橋少年にとっての一生の思い出は“8時だョ!全員集合の公開収録”に行った事と話をしましたら、リスナーの皆さんの中にもいらっしゃったようで…
 
≪昭和39年生まれのリスナーさん≫
昭和52年。下関体育館に、「ドリフターズ」がやって来たんです。生で見る「8時だよ!全員集合」にドキドキ・ワクワクしました。当時、志村けんさんは、まだ見習いで、前座にチョロっと出て来られました。会場の入り口には、ドリフターズのメンバーが乗って来られたと思われる、アメ車の「サンダーバード」が止まっていました。
 
≪昭和43年生まれのリスナーさん≫
私が小5の時のお正月、当時、静岡県在住でしたが、バスツアーで東京の新宿コマ劇場に、ドリフターズの正月公演を見に行きました。
きっと、席は後ろの方だろうと、オペラグラスを買いました。が、はじっこの方でしたが席は何と3列目!うれしかったですねえ。はじっこの方なので、立ち位置的に私たちの前は、だいたい高木ブーさんでした(笑)。
水芸をするブーさんの姿、はっきり覚えてます。
 
≪昭和29年生まれのリスナーさん≫
「昭和の一生の思い出」は、高校2年の修学旅行で行った大阪万博です。最初に目に飛び込んできた太陽の塔は、今だにハッキリと目に焼き付いています。
アメリカ館やソ連館には入れませんでしたが会場をグルリ廻って世界中を観たような気分になりました。それまで外国の方を見たことがほとんど無かったし、テレビのような画面に短い棒で触れると画面が変わってビックリしたのは、今思えばタッチパネルだったのでしょうか?
 
≪昭和39年生まれのリスナーさん≫
田舎の山奥育ちの私。昭和40年代の土曜日・半ドンで学校から帰ってお昼は、祖母が作るラーメンでした。キンちゃんラーメンが定番。たまに出前一丁が贅沢でした。
そんな中、中学に入学してはじめて、母にラーメン店に連れて行ってもらいました。初めて見るチャーシューやメンマに感動しました。汁も残さずに全部食べました。本当に上手かったことが今でも忘れられません。
 
≪昭和39年生まれのリスナーさん≫
昭和57年の大学受験。国公立の入試は、当時は前期入試、後期入試なんてのはなく、受験できる学校はひとつだけでした。
共通一次を経て、京都で二日間の2次試験を受けました。
もちろん、インターネットなどもありませんから、合格発表はわざわざ受験校まで見に行くか、合格通知が送られてくるのを待つことになります。
そこで、大抵の受験会場では、大学の学生が代わりに合格発表をみてくれて電報を打って知らせてくれるという有料サービスがありました。学生がやることだから信頼性がイマイチということもあって、私は2つの団体に依頼したのですが、合格発表の日、2通の「サクラサク」の電報を受け取ったときはうれしかったです。一生の思い出になっています。
 
≪昭和38年生まれのリスナーさん≫
自分は二十歳ぐらいの時に和太鼓の「回天太鼓」の演奏チームに入っていました。
もともと音感が全く無い自分でしたが、周りのみんながサポートしてくれて平太鼓のパートを叩かせてもらっていました。
ある時、東京で催し物があり、その一つの演目に自分達が出場する事になりました。
当日、3000人以上のお客さんの前で叩かせてもらい、最後演奏がバシッと決まった瞬間の何とも言えない気持ちと、お客さんからの大歓声は今でも忘れられない思い出です。
 
≪昭和30年生まれのリスナーさん≫
「昭和の一生の思い出」というと、船での世界一周です。商船高専では、卒業前の1年間、船での航海実習があります。最初の半年間は、帆船・日本丸でハワイに行き、後の半年間は、機船・銀河丸での世界一周でした。
東京を出港して太平洋を渡り、ロスアンゼルス、パナマ運河入り口のバルボア、大西洋を渡り、ポルトガル、リスボン、地中海に入り、ギリシャ、ピレウス(アテネの近く)、スエズ運河の入り口、ポートサイド、インド洋を通ってシンガポールの各港に寄港して、東京に帰ってくる、80日間の世界一周でした。
寄港した港では、4日間停泊し、観光したりお土産を買ったりできました。中でも、一番の思い出は、アテネのパルテノン神殿に行ったことでした。
 
≪昭和35年生まれのリスナーさん≫
小学生の頃、コント55号の欽ちゃんが好きで、雑誌に書いてあった住所に年賀状を出してました。
その欽ちゃんがやっていたラジオが「欽ちゃんのドーンと行ってみよう」。番組にネタを考えて送っていました。ほとんど読まれることはなく、最後にボツはがきの名前を読んでくれる時に、確か3回くらい。また、川柳のようなネタでの「今日の一言」に2回読まれました。そして、一番のコーナーの「あぁ勘違い」で1枚だけど読まれたんです。しかも、欽ドン賞をもらいました。普段は五千円なんですが、その日は二人が欽ドン賞だったので三千円を賞品として貰いました。欽ちゃんが僕のつたないネタを読んで笑ってくれた「一生の思い出」です。
 
さて、次週6/22も「昭和の一生の思い出」で行きましょう。高橋少年はもうひとつ。中1の時の夏に富士山に登って山頂で1泊、翌朝ご来光が出来たことですね~。次週も「昭和の一生の思い出」お待ちしています!
 
そして、ご昭和くださいのYouTube動画、毎週水曜日に更新しています!
https://www.youtube.com/watch?v=bhcVcclhji0
テーマは「昭和の録音 PART2」
山根さんが見て大笑いしたという、私高橋のデビューしたての頃のVTRが挟んであります!

昭和の 私の帽子PART2

2025年06月08日

今週は「昭和の 私の帽子PART2」で30分。
松崎しげるさんの♪黄色い麦藁帽子をBGMに皆さんのエピソードをご紹介しました。
 
≪昭和38年生まれのリスナーさん≫
アルバムに残っている卒業式後の写真を見ると、被っているのは阪神タイガースの帽子。友達は巨人や広島ファンが多かったです。私は小学校二年生の時に入院したことがありまして、そこの小児科の病棟は何故か阪神ファンばかりで、つられて阪神ファンになった記憶があります。が、それ以降ずっーとタイガース一筋で今日に至っています。
 
≪昭和38年生まれのリスナーさん≫
鹿野小学校6年の修学旅行は、下関、北九州方面へ、1泊2日のバス旅行。学生帽は、夏季用の白キャップでした。
下関の鯨館内を見学したあと記念写真を撮りました。なぜか、一番右にいる友達のイエマン(あだ名)だけ、阪神タイガースの帽子でした。
 
≪昭和43年生まれのリスナーさん≫
私は頭のサイズが人より小さいようで、髪の毛が薄くなった30代からはスキンヘッドにしています。市販のサイズが合わないので母にいつも手直しして貰っています。
 
≪昭和38年生まれのリスナーさん≫
小学生の時のクリスマス子供会の催し物。
町内で有名な“自称マジシャン”のおじいさんがいて、マントにシルクハットを被り、まるで怪傑ゾロみたいな格好でステージに立ちました。
たぶん、そのおじいさんは、被っていたシルクハットから、何かしらかの液体を出したかったのでしょう。シルクハットの中には何も無い事をアピールするため、シルクハットを取ってみんなに中を見せようとした瞬間、シルクハットの中から“青色の液体”がドボドボと垂れ落ちてしまいました。
多分、仕込んでいたネタが、どこか破れて出て来たのでしょう。印象に残るクリスマス会となりました。
 
≪昭和29年生まれのリスナーさん≫
昭和52年に行った新婚旅行は沖縄でした。途中、与論島に行くのに船にも乗りました。何組かの新婚さんが一緒で同じ部屋で過ごしたんですが、その中に大きな帽子が潰れないように入れる為に厚紙で出来た“円柱形の箱”を持ち歩いている人が居ました。軽いとはいえ、かなりの荷物です。私はごく普通の畳める帽子でした。
 
≪昭和51年生まれのリスナーさん≫
小学1年生の頃、伯父に買ってもらった帽子がお気に入りでした。
それは、テレビアニメ「Dr.スランプアラレちゃん」の帽子です。
帽子の左右に白い羽がついていて、帽子のつばは紺色、それ以外は赤色でした。
この帽子を被り、「キーーーーーーん!」と言いながら両手を広げてダッシュしてアラレちゃんの真似をしていました。楽しかったなー!
 
さて、次週6/15は「昭和の一生の思い出」で行きましょう。待望の彼女が出来た、合格した、海外に行った等いろいろあると思いますが、高橋少年はやっぱり“8時だョ!全員集合の公開収録”に行けたことですね~。皆さんからも、昭和の頃の一生の思い出・エピソードをお待ちしています!
 
そして、ご昭和くださいのYouTube動画、毎週水曜日に更新しています!
https://www.youtube.com/watch?v=rmlDriHGDII
テーマは「昭和の録音」
山根さんは幼稚園卒園時に園長先生の部屋にあるテープレコーダーに「大きくなったら」というテーマで吹き込んだんですって。

昭和の 私の帽子

2025年06月01日

今週は「昭和の私の帽子」で30分。
ご自身の、また、ご家族の帽子の思い出がたくさん送られてきました。
 
≪昭和43年生まれのリスナーさん≫
初めておしゃれな帽子をかぶったのは、たぶん1歳の時だそうです。テレビで、ピンキーとキラーズが被っていた帽子をじっと見ていたらしく、母がそれ風のヤツを買ってきたみたいです。外はもちろん、家の中でも、かぶりたがって随分困らせたようです。山高帽子と呼ばれていたっぽいですね。
 
≪昭和35年生まれのリスナーさん≫
子供の頃は帽子と言えば、YGマーク。そうです、山口では巨人軍のマークが殆ど。たまに阪神のマークや広島のマークを見かけるくらい。あと南海もたまには見かける事も有りました。大半の人は巨人軍の帽子でしたが、私は、阪神の帽子を被っていました。
 
≪65才のリスナーさん≫
私は子供の頃から、人一倍、頭が大きく、幼稚園の頃、先生と同じ大きさの56cの帽子を被っていました。重量分布の慣性モーメントのバランスが悪くのか、小さい頃は、良く転んだものです。
高校生の時は、既製品の学生帽が合わず、特注の帽子を被りました。単車のフルフェイスのヘルメットが、メーカーによっては、サイズの合うモノが違い、探すのに一苦労していました。
 
≪昭和48年生まれのリスナーさん≫
私が幼稚園の頃、沢田研二さんの「勝手にしやがれ」という曲が大ヒットしていましたね。
歌番組で沢田研二さんが歌う途中で帽子を放り投げる姿が印象的だったのを覚えています。
私も真似をしようと思ったんですけど、あいにく私の家にはエレガントな帽子がなく、仕方なくチロリアンハットみたいな幼稚園の通園帽子をかぶって、 テレビの向こうの沢田研二さんと一緒に帽子を脱いで放りなげていました。
 
≪昭和46年生まれのリスナーさん≫
昭和10年生まれの寡黙な父とは、幼い頃から遊んでもらった事や会話した記憶は殆ど無いんですが…私が幼稚園に入園した時に、何故なのか、その寡黙な父がひょうけた表情で私の幼稚園の帽子を被り、バックを肩にかけて自宅で記念撮影をした事があり、子供ながらにビックリした出来事を、今回のテーマで思い出しました。
 
≪昭和37年生まれのリスナーさん≫
昭和47年小学4年生の頃のこと。当時、男子で普通の野球帽に球団のマークを取り付けるのが流行って、僕はカープ(当時はH)を付けたかったけど、どこにも売っていなくて、大型スーパーに巨人と西鉄だけが売っていました。
当時は、西鉄はNとL混合の複雑なマークですが、巨人が嫌なので西鉄を買って母に縫ってくれるように依頼しました。すると、母は、反対に縫ってしまったので「これ!反対じゃあね!」と言ったら、反対の意味が理解出来てない様で、「こっちの方がカッコ良いわーねー!」と言われました。
 
さて、次週6/8も「昭和の私の帽子」で行きましょう。贔屓の球団の野球帽、おしゃれな家族の帽子、体育の赤白帽子、テンガロン、カウボーイetc皆さんの帽子の思い出・メッセージ・写真をお待ちしております!
 
そして、ご昭和くださいのYouTube動画、毎週水曜日に更新しています!
https://www.youtube.com/watch?v=VP-psvcQ9EM
テーマは「昭和の雑魚寝」
山根さんが好きな「マイクロ」って言葉が出てきて大盛り上がり~。


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