『墓たち』
今まではお墓が丸見えだった墓場に、新しく垣根が出来ることで景色が変わる様子を描いているんですが、墓の立場からの視線と、自分の視線の両方を綴っています。みすゞさんらしい眼差しです。自分から墓が見えなくなるのはすぐ気づくこと。でも、墓にとっても、目の前の景色が見えなくなる。墓に眠るご先祖様、お父さんお母さん、おじいちゃんおばあちゃんは、生きている子や孫の姿が見えなくなると想像しています。そして、自分たちは、昔むかしの丸い小さい、誰のものかもわからない、そのかわいい墓石が見えなくなるさみしさを詠っています。お盆のお墓参り。あなたはどんな気持ちでお参りされるでしょう。
『蝉のおべべ』
蝉の抜け殻、時々道端で見たりしますが、その抜け殻を蝉のおべべとして童謡の世界が広がる金子みすゞさんの心の広がりは、夏休みの子どもたちにもとても良い眼差しですね。そして、その大人が思いもしないことを想像する子ども心を、しっかり受け止めて、またそこから想像の世界を広げてあげられる大人でありたいなと、この詩のように素敵な会話が出来る大人だったらいいな、と思います。
『蝉しぐれ』
蝉は、雄しか鳴かないのをご存知でしょうか。雄が雌に対して自分の存在をPRしている鳴き声だそうです。なので、あの蝉しぐれの鳴き声は、大きな大きな求愛の声なんですね。そう思うと、蝉しぐれの響きも、違った味わいになってきますね。
『夏』
夏の暑さが年々増す中でも、早朝の涼しさは少しは健在でしょうか。「夏は夜更かし、朝寝坊」と表現するみすゞさん。確かに、夜はしばらく蒸し暑く、自分たちが寝る時間もまだまだ暑い。でも朝は、私達のほうが先に起きて、涼しい夏の朝は、まだ夏が眠っているんだと。そんな想像をしたら、暑さも少し和らぐ気持ちになりますね。
『あさがお』
夏を象徴する花のひとつ、朝顔。その咲き方、あっち向いたりこっち向いたりの花の付き方で、それをクールに見つめる詩です。お花同士が顔を合わせることなく咲いて、一日が過ぎて、蜂やお日様はその花たちに意識を向けても、当の花本人はあっち向いてこっち向いてのそのまんま。ただただ、そのまま、一日が終わって、「それでおしまい、はいさようなら」と綴られています。日常はそんなもの。このクールな眼差しもまた、大切な心のバランスに感じます。
『なぞ』
金子みすゞさんの詩の中で唯一の「なぞなぞ」の詩♪夏の何気ない風景の中にも、みすゞさんの眼差しは面白く鋭く光ります。青く冴えわたる海の色。その青い水も、手ですくってみると青くはない。見えない風も、うちわであおぐと、小さな風をすくえるよと。見えるものが見えなくなって、見えないものが見えるように感じる。
この「見える」と「見えない」の不思議さ。お子様の夏休みの自由研究の課題にしても、面白いなぁと思います。
『七夕のころ』
賑やかで華やかな色合いの七夕。でもみすゞさんさんは、その中のさみしさ、静けさに心を傾けています。賑やかに過ごしている中にも、心さみしい思いの存在もいる。やっぱりこれが、金子みすゞさんの眼差しの温かさ、優しさですね。
『七夕の笹』
この詩もまた、ちょっと切ないお話。みすゞさんは七夕にはいつもさみしい気持ちを抱いていたのでしょうか。もしかしたら、2歳の時に満州で亡くなったお父さんへの思いも、重なっていたのかもしれませんね。一年に一度会える織姫と彦星。一年に一度も、もう会うことが出来ない自分のお父さん。子どもの頃の小さなみすゞさんの思いに、心が傾きます。
『夜散る花』
朝や昼に散った花のことは、みんなの目に留まる。でも夜散る花は、誰にも気づかれない。その姿を見つめている詩です。さみしさを知っているみすゞさんの心には、いつも忘れられるものへの眼差しが注がれています。
『草原の夜』
私が作曲している作品のひとつです。人間が眠っている間に繰り広げられる自然界の夜の景色。夜の神秘的な草原の、命が吹き込まれる世界。この世界観もまた大好きです。
『蛙』
この詩の中の蛙は、雨が降らなきゃ「なまけてる」と思われ、雨が降れば「お前のせいだ」と言われる憎まれっ子になっています。心がやさぐれてしまった蛙には、綺麗な虹さえも、自分をバカにしているように思えてくる、なんともかわいそうな詩です。でも私たちも、こういうこと、経験していると思います。気持ち次第で、綺麗なものも綺麗に見えず、例えば親切さえもバカにされているように思えてくる。気持ちって、大事ですね。自分の心がいつも自然体で、ひねくれないでいられること。それには、自分を信じる気持ち、強い平常心が大切ですね。心のバランスが乱れやすい梅雨の季節。穏やかに過ごせますように。
『不思議』
歌にもしている好きな詩のひとつです。子どもがいろんなことに疑問を持つ心を、大人に「あたりまえだ」と笑われてしまう残念さ。それをもこの詩では、「不思議」だと表現しています。いろんな想像が膨らむ子ども心、その「なぜ」という気持ちから、未来の専門家が生まれるかもしれない。その可能性も、周りにいる大人の影響は大きいかもしれませんね。
『世界中の王様』
何もかもを手に入れている王様は、あまりに広い御殿なので、広い広いお空を、気持ちのいいお空を知らないだろうと。そしてその素晴らしい空を知らない王様よりも、いつもこの空を見ていられる自分のほうがいいなと思っている、純粋な心のお話です。
この純粋さが、日々忙しく生きている私たちをホッとさせてくれます。忘れかけている大切な心の眼差しです。
『女王さま』
そして今度は自分がもしも女王様だったらという話。小さい頃の自分がさみしい思いをしている時の、そんな事がないようなお布礼を出す女王様を描いています。そんなみすゞさんの小さな願いがまた、かわいいです。でも、そんなさみしい思いも我慢していたみすゞさんだからこそ、私たちのいろんな思いを汲み取ってくれる、寄り添ってくれる詩が描けているとも言えますね。
素晴らしい作品は、明るいものだけではなく、影のさみしい部分、隠れている部分があってこそ、そこから生まれてくるものです。泥の中から蓮が咲く、それに似ているのかもしれません。
『ぬかるみ』
裏町のとおりの日かげのぬかるみ。いつまでも乾かないぬかるみ。私たちは「ぬかるみ」というとあまりいいイメージを持ちません。でも、みすゞさんの眼差しは違いました。そのぬかるみに映る青い空を見つめていました。この世の中のものには全て表面だけではなくその中に隠れているもの、裏にあるものが存在します。その見えない部分に大事なものも隠れている。みすゞさんは暗い中にも希望の光、苦しい中にも明るい未来、いつもその気持ちを忘れない人だったんだと思います。
『瀬戸の雨』
金子みすゞさんの故郷、長門市仙崎の北側、青海島を望むあたりは瀬戸といいます。今は、青海大橋で繋がっていますが、みすゞさんの頃は渡し舟で行き来していました。その海の潮どうしの会話の詩。みすゞさんの心の世界でその海を見つめると、潮が渦を巻く中に会話が聴こえてきます。トンビが飛んで、潮が流れて、いろんなドラマがその景色に映ります。みんな同じ時を、暮らしているんですね。