ご昭和ください

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昭和の お見舞い

2023年06月11日

昭和46年生まれ51歳、高橋裕です。
 
今週は「昭和の お見舞い」で30分。
 
小学5年生の時に田んぼで棒高跳びをして遊んでましたら、棒が腐っていたらしく、一番高く上がった時に棒が折れて左肘を複雑骨折しまして、2週間入院しました。その間、誰も見舞いに来ませんでしたが、病室は2人部屋で、一緒の部屋には40代のおじさんがいました。
そのおじさんには、たくさんの人が見舞いに来て、いろんなお見舞いの品物がベッドの横に置いてありました。それは、かごに入った果物の詰め合わせとか、高級プリンやゼリーが入った箱で、もう美味しそうな物ばかりでして、自分は当時、物凄く遠慮が無い子供でして、そのおじさんが良い人に付け込んで、その梨をくれとか、プリンが食いたいとか言ってもらってました。
 
お見舞いと言えば、中学1年のとき、バレー部で練習していて足を骨折してしまい入院しました。夏休み入ってすぐのことでした。そして、バレー部の同級生がお見舞いにきてくれました。しかし、大部屋の病室で大きな声を出し看護婦さんから怒られた記憶があります。
その時の同部屋のメンバーがおばあちゃんばかりで、見るテレビが「水戸黄門」やら「大江戸捜査網」など時代劇で私もみるしかありませんでした。しかし、大江戸捜査網がちょっと気に入っていました。特に「死して屍拾う者なし」というフレーズがお気に入りでした(笑)そして、里見浩太朗さんがかっこよかったのを覚えています。
 
私が小学生の頃、河原で石を投げて遊んでいました。一緒に遊んでいた子が投げた石があさっての方向に飛んで行き、岩に跳ね返った石が私の頭に当たりました。その後も普通に遊んでいたら何やら頭から血が出ているのに気づき急いで町医者に向かいました。
2針を縫う怪我をしてしまい、次の日、石を投げた子供と母親がお見舞いに来てバナナとカルピスを持ってきてくれました。とても嬉しかったのを思い出します。当時、バナナは、高級な果物のイメージでした。
 
小学校低学年の時、父が入院した。時々、母と見舞いに行ったがなぜか私は病室には行かず、当時珍しかったエレベーターで昇ったり降りたりして時間を潰していた。
 
小学生の頃、父が病気で長期入院しました。今思えば我が家にとって一大事でしたが、母がのんきな性格で暗い顔を見せなかったせいか、子どもだった私は全然深刻に考えることもなく、毎日お見舞いという名目で一人で病院に行っては、家にいる時より優しい父の顔を見て、お互い無口なので少しだけ話して、後は日頃あまり乗る機会のないエレベーターに乗ったり、屋上から景色を眺めたり、売店でジュースを買って飲んだり、病院の中を一人で探検していたことを思い出します。
何ヵ月か後、父は完治して退院することができましたが、それから21年後に亡くなった父の通夜で、母が「あの頃はお父さんは長生きできないかもと覚悟したけど68歳までよく頑張ってくれた」と話していました。
 
昭和のお見舞いと言うテーマで、どうしても忘れられない事があります。広島の高校に進学して一人暮らしをしていた兄が、盲腸になり、新幹線で実家のある宇部へやっとの思いで帰り、外科医院で手術・入院しました。兄は1960年生まれでキャンディーズの大ファン。お見舞いに行った小学生の私に「キャンディーズの解散の写真集を買って来い」と、当時井筒屋の近くにあった書店まで歩いて買いに行かされました。確かキャンディーズは後楽園球場で解散コンサートをしましたが、兄も行きたかった事でしょう。
 
 
さて、次週6/18も「昭和の お見舞い」で行きましょう。お見舞い先でメロンやカルピスをいただいた、お見舞いの度にお小遣いを貰ったりジュースを買ってもらっていた、本当に必要なお見舞い品が来ないetc.昭和の頃のお見舞いの思い出お待ちしております。
 
 
そして、ご昭和くださいのYouTube動画。
毎週水曜日に更新してます。
https://www.youtube.com/watch?v=CXcJCnFmdLc&t=190s
今回は「昭和の 慌てた焦った」
動画も、どうぞごらんください!


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