ご昭和ください ブログ
昭和の個室・自分だけの部屋PART2
2019年12月08日
昭和46年生まれ48歳の高橋裕です。
今日は「昭和の個室・自分だけの部屋PART2」で30分。
初めて、自分の部屋を貰えたのは、小4の時でした。
高校を卒業した従姉妹が勉強机を、
中学を卒業した従姉妹がピアノをくれたので、
物置にしていた三畳の板張りの部屋が私の部屋になりました。
叔父が使わなくなったからと、ラジカセをくれて、
父がアコーディオンカーテンを付けてくれました。
机とピアノに場所を取られスペースは
殆どありませんでしたがすごく嬉しかったのを憶えています。
一人っ子の私ですが…
小学校1年の時は2DKの小さなアパートに住んでいて、
入学当時、新しく買ってもらった学習机は
ひとつの部屋の隅っこに置かれました。
自分の部屋=スペースが欲しかった私は、
こたつとこたつ板を立てて仕切りを作りました。
そこに自分のおもちゃや勉強道具を集めました。
小学3年の時に父の仕事の都合で5LDKの家に引っ越して
2階の2部屋を与えられました。
嬉しくて1部屋は勉強部屋、1部屋は寝る部屋と決めましたが、
結局持て余し1つの部屋で過ごし、
夜は1階の母のところで寝ました。
私は天井の低い狭い空間が落ち着きます。
昭和60年生まれの息子も、子供の頃ダンボールで
自分の家をよく作っていました。(笑)
小さい頃の住まいは、マッチ箱のような平家が20軒ほど
整然と並んだ市営住宅で、個室などないのが当たり前でした。
学校へ行くようになってから
玄関上がってすぐの廊下に事務机を置き勉強しました。
団地でいち早く黒電話を買ってその事務机に設置したので、
近所の電話取り次ぎを何年か主に私がやってました。
電話がかかるたび「電話ですよ」と知らせに行っておりました。
昭和62年に区画整理で
下松市から光市虹ヶ丘に引っ越した私は、
やっと自分の部屋をゲットしました。
4畳半だったけど、やっと自分の部屋を持てたから
とても嬉しかったです。しかし、
部屋にテレビの受信設備を設置しなかったのは
とても辛かったです。
昭和57年、私が中3の時に我が家は新築いたしました!
そこで私は一人部屋となりました。
問題は兄貴と共同に使っていたレコードプレーヤーと
ラジカセをどちらの部屋に置くかです。
兄がレコードの8割を持っていたので
レコードプレーヤーは兄貴の部屋に、
ラジカセは私の部屋!ということになりました。
が、聞くテープがないので、
大場久美子さんファンだった兄貴が
ベスト版テープを作ってくれました。
が、これが、なかなか個性的な歌唱力なので、大変でした(笑)
当時のラジカセは、まだ現役です。
さすがにカセットは25年ぐらい使ってませんが、
ラジオは感度抜群です!
さて、次週12/15は「昭和の ライバル」で行きましょう。
馬場と猪木、長州・藤波、飛雄馬と花形、
ジョーと力石、キャンディーズとピンクレディー、
瀬古・宗兄弟・伊藤国光、
今だったら「川内・バトオチル」!?
皆さんが思い出に残る「昭和のライバル」お待ちしています!