ご昭和ください ブログ
昭和の 狭い
2024年12月22日
昭和46年生まれ53才、高橋裕です。
今日は「昭和の狭い」で30分。
都営住宅に父と母、私(男)、妹の4人で住んでいました。
もともと狭い都営住宅ですが、小学年高学年になると兄妹が同じ部屋では問題あり、ということで、私には3畳の「板の間」が与えられました。
その3畳の部屋に、システムベッド(?)を両親は買ってくれました。そのベッドは、2段ベッドの2段目(上)がベッド、1段目は学習机とタンス、書架があるという代物でした。そのシステムベッドには中学、高校、浪人(1年)、大学の11年間、お世話になりました。
高校を卒業して初めての一人暮らしで住んだのが家賃三千円の三畳一間のアパート。ファンシーケースを置いて布団を敷いたら足の踏み場がありませんでした。押し入れすらなかったので、布団は畳むと部屋の隅に置いて、ソファー代わりに畳んだ布団の上に座っていました。夫が独身時代住んでた会社の寮も同じような感じで、ベッドと机のスペースしかなくて、カプセルホテルに毛が生えたような狭さだったそうです。
昭和59年~63年、島根県での下宿部屋の話です。当時転がり込んだ下宿先は、「3交替の電子機器の工場に通う人たちの共同アパート」でした。
カギ無しの四畳半部屋で、2階の6部屋の内のひと部屋を、5年間私は住んでいました。
家賃が安いのと、弁当・夕飯付きの魅力にひかれたのはいいけれど、夏は暑く、冬はすきま風、窓にガムテープで目張りするものの結露でべろべろでした。たまに、残業で夜中に変えると違う人が酔って、寝ていたりして。。。。
今では考えられませんが、万年床に、こたつ一つ、めちゃくちゃ狭かったのですが、当時の私は、結構満喫してました。
昭和の狭い、と言われて思いつくのは、寝台列車の最上段です。
寝台列車は、あさかぜ、富士をよく利用していましたが、最初の頃は、3段ベッドでした。
3段ベッドの一番上の段は、車体の窓側の上の部分が丸くなっているので、非常に狭くなっていました。天井が低いので、ベッドに座ることができず、梯子を上がると、そのまま横滑りするように横になるしかできませんでした。弁当を食べたり、ビールを飲んだりする時は、通路にある小さい補助いすに座って、飲食をしていました。寝台列車が、2段ベッドになってからは、ベッドに座って弁当が食べられるようになりました。
高校を卒業して初めて買った車が小さい軽四輪。
買って間もなく、高校の柔道部で一緒だった友達が大学から帰って来て飯を食いに行く事になりましたが、そいつ身長が180センチ、体重も110キロあり、自分も178センチ、体重も80キロあったんで軽四輪の車の中がぎゅうぎゅうで、狭い狭い。
ラーメンを食いに行って、帰りはニンニクの匂いで臭い臭いでした。
父が初めて新車を買ったのが、軽自動車でした。
「この車に家族4人が 乗ってたんだなぁ」
でも、子供だったからか、狭いとは感じなくて、それが当たり前だったからでしょうね。
さて、次週12/29のテーマは、ずばり「昭和の沢田研二」で行きましょう。ちょっと前に山根さんが“ジュリーをテーマにしたら何週でも喋れるよ、ワシは”と言っていましたんで、皆さんからも昭和の頃の沢田研二さんの思い出・エピソードをお寄せください。コンサートに行った、レコードをいっぱい買ってた、追っかけしていた、ドラマ・映画にはまったetcジュリーの曲もかけながらお送りします!
そして、ご昭和くださいのYouTube動画、毎週水曜日更新です!
https://www.youtube.com/watch?v=o4ZZEz-VbcI
今回は「昭和の記念」
山根さんは、クラスで「山根君がイケナイと思います」って、良く言われていたそうです。
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