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【特集】約80年ぶりにB29の機体の一部を発見 戦争の記憶をつなぐ探検家の思い (秋田県)



終戦直後に男鹿市の本山に墜落したアメリカの爆撃機・B29の機体の一部が、約80年ぶりに見つかりました。

発見した探検家の橋大輔さんは、現場にほかにも残されているとされる、より大きい、大人の背丈ほどもあるB29の一部も探しています。

戦争の記憶を今に伝える、貴重な痕跡。

探索を通して、埋もれていた史実に次々と光が当てられています。

■約80年の時を経て…惨状を伝えるB29の機体の一部を発見

80年近い時を経て、去年12月1日に見つかった、アメリカの爆撃機・B29の機体の一部。

風化が進み、変形した姿から、時の経過と当時の惨状が伝わってきます。

終戦からわずか2週間足らずの1945年8月28日。

アメリカ軍のB29が、捕虜が収容されていた大館市花岡に食料などの物資を届けるため、男鹿市の加茂青砂地区の上空を飛んでいたところ、霧で視界を失い、本山に激突して墜落しました。

乗組員11人が死亡。

1人だけが生き残りました。

バラバラになった機体は、その後、大半が回収されています。

ただ、一部はまだ現場に残されたままで、探してほしいと男鹿のジオパークガイドの男性から相談を受けた探検家の橋大輔さん58歳が、16回目の登山で金属を見つけました。

太田朋孝 記者
「ちょっとだけ持たせていただいてもいいですか」
橋さん
「持ってください」
太田 記者
「あ、重さもそんなにない」
橋さん
「いや、それが私が最初にこれがB29のものじゃないかと直感したもので。いわゆるジェラルミンの機体なので軽く、こう造られているんですよね」
「いろんなものを軽くすることで、より機動力を高めたという。1945年当時の、最新鋭の技術を駆使した爆撃機だったので」

橋さんが見つけた金属の検証を、アメリカの国立第二次世界大戦博物館に依頼したところ、B29の一部だと確認されました。

橋さん
「エンジンを覆う箱のことをナセルっていうんですよね。そのエンジンナセルの中に、油圧装置があって、その油圧装置とエンジンとの間を結ぶ油圧パイプっていうのが、いくつも通っているんですけれども、このパイプっていうのがその一部だろう」
「私が改めて並べて検証してみると、この金属、この壁の角のところに、この金属の部品があって、それがちょうどこの角のところに当たるんじゃないかなと」

当時の状況を読み解く足掛かりになる、B29の一部。

橋さん
「秋田がどういう戦争を体験してたのかっていう、それを一つの物語として提示できるだけじゃなくて、その証拠物としてこういうものが、役割を果たしていけるっていう。だからそういう意味でこれはすごく秋田の中でも宝になっていく。財産になっていくんじゃないかなと思いますよね。地中に埋もれていたりとか、歴史に埋もれているものを探していくっていうことは、この秋田だけじゃなくて、全国にもメッセージが」

■貴重な史料をもとに 戦争の記憶をつなぐ取り組み

この日、橋さんは、秋田大学を訪れました。

発見したB29の一部の価値や位置づけを、歴史・平和教育が専門の外池智教授に聞くためです。

外池教授は、2018年に、研究者や学校の教諭とともに「秋田県戦争遺跡研究会」を設立。

戦争の遺構や痕跡を、県内全域で調べました。

今も、当時のまま残るものは数えるほど。

姿・形を変えてしまったものがほとんどでした。

秋田で新たに見つかった、戦争の痕跡。

橋さん
「機体の一部があるところが、下がもう灰になっているんですよね。だから結構なエリアが、この場所っていうのが、火災が起きていたということが明らかで、そういう意味でも80年前の痕跡がそのまま残っていて。それがその上にちゃんと残っているということが明らかなので。実はそういうようなことがあれば、秋田県にも戦争遺跡っていうのがあるんじゃない…あると言えるんじゃないかと…」
外池 教授
「そこまでそろっていれば、もう間違いないなって感じはするけど。ただ、なかなか行政の方もね、前も、被爆倉庫の時も働きかけたりもしたんですけど、なかなか腰が重くて。だけどぶっちゃけた話、結構全国的に首長さんがやる気があって『あれ保存するぞ』って鶴の一声でバーンって決まっちゃったりとか、あと市民団体の動きが、沖縄なんかではね、しっかりしていたりすると、もうパッて、あっという間に保存の動きがあるんですよね。実際は。ただ秋田県の場合はなかなかそこが腰が重くて」

進まない、戦争の痕跡の保全。

B29の手がかりを探す中、橋さんが入手した貴重な史料はほかにもあります。

墜落したB29と、乗っていたメンバーとみられる写真です。

唯一の生存者、ノーマン・H・マーチンさんの娘が提供してくれました。

さらに。

橋さん
「これはもう完全に秋田の人に知らせなければいけない、知ってもらわなければいけない史料だなというふうに。思いますね。B29が墜落した時に、1人、マーチンさんが救出されましたけど、そのマーチンさんを最後、アメリカから迎えに来て、能代の東雲の能代飛行場から、こう厚木基地に戻るんですけど」
「ビデオを一瞬止めると、能代警察署って書いてあるんですよね。そうなんですね。実はこれ、マーチンさんと会った時に、これがマーチンさんですね」

墜落後に加茂青砂地区の住民に救出されたマーチンさん。

その後は、米軍関係者とともに能代市なども訪れていて、当時あった料亭でもてなしを受けていました。

亡くなった11人を弔う花や遺骨を運ぶ映像も残されています。

マーチンさんは、35年前の1990年、助けてもらった感謝を伝えようと、再びアメリカから秋田に。

墜落の現場付近も訪れました。

マーチンさん
「うれしいと同時に、感謝している。1945年と同じ場所に同じルートで連れてきてくれたことに」

約80年の時を経て、少しずつ、つながっていく歴史。

そして、現場にまだ眠ったままの当時の痕跡。

B29が墜落した本山には、より大きい、大人の背丈ほどの機体の一部が今も残っているとみられています。

橋さん
「この丸い部分、これがB29の着陸装置。つまりタイヤが着陸する時にですね、地面に着陸しますけれども、これはその一部だろう」

高橋さんは、この機体の一部も探し当てて、埋もれていた歴史に光を当てたいと考えています。

橋さん
「秋田にいながら、秋田で知らない歴史があって。それを掘り起こしてみたいっていう、今までの経験とか思いとか。その辺を全部集約して。自分が生まれ育った秋田の中でまだ謎になってる。そういうものに対して向かっていきたいっていう」

戦後80年。

当時を知る人たちから直接話を聞くことが難しくなる中、痕跡を通して、戦争の記憶をつなぎ、新たな歴史をつむぐ橋さんの歩みが続いています。

(04/17 17:44 秋田放送)

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