■あの日を忘れないために…日本海中部地震から42年 男鹿市や能代市で津波の犠牲者に追悼の祈り (秋田県)
全国で104人、県内では83人が亡くなった日本海中部地震から26日で42年です。
津波による犠牲者が出た男鹿市や能代市で、今年も追悼の祈りが捧げられました。
<男鹿市>
男鹿市戸賀の加茂青砂海岸です。
42年前、この海岸では、遠足で訪れていた北秋田市の旧合川南小学校の4年生と5年生、13人が津波で命を落としました。
海岸の近くには亡くなった児童を追悼する慰霊碑が建てられています。
午前中から住民などが集まり、花や、この日のために作ったという絵灯籠を供えました。
住民
「もう42年になったなって話してた。はやいもんだな」
北浦婦人会 嶋宮薫さん
「子どもたちの気持ちを考えれば、さぞつらかったろう悔しかっただろうなと思いながら、遺族の方たちも同じ思いでいるのを自分たちも感じますので、その人たちに付き添えればいいなと思って作りました」
地震が発生したのは、1983年5月26日の午前11時59分です。
発生時刻にあわせて、遺族や住民が、亡くなった児童たちを悼みました。
104人が死亡し、このうち100人が津波の犠牲になった日本海中部地震。
三浦欽一さんは、当時、旧合川南小学校の児童が乗るバスの運転手として加茂青砂を訪れ、娘の民子さんを亡くしました。
三浦欽一さん
「私自身がマイクロバスを運転してきたがために、大人として、親として助けられなかったっていうのは一生忘れない。懺悔の思いですね」
地震が発生したのは、美しい海を見ながら食べようと児童が弁当を広げた直後でした。
遺族たちは、毎年あの日食べられなかった子どもたちに、弁当を作って海を訪れます。
福岡史恵さんは、4年生だった有希子さんを津波で亡くしました。
(弁当開けて)「はいどうぞ〜」
供えるのは、有希子さんが遠足に持っていった大好物のたまごサンドです。
福岡史恵さん
「食べさせたい一心で、ついこうお話しながら、食べてほしいなあという思いで、供えます。それが一番の供養かなと」「(一緒に供えた)紫のジャーマンアイリスっていう花は、きのうまで蕾だったんですけど、けさ私5時半に起きたらもう花が八分咲きだったんです。もしかして有希子がわかってるのかなあって」
「じゃあねばいばーい」「お花見てね。ひまわりさんもいるよ」
今年も、それぞれの思いを胸に子どもたちの冥福を祈りました。
<能代市>
あの日、6メートルから8メートルの津波が押し寄せたとされる能代港では、火力発電所の防波堤の造成や、埋め立て工事にあたった36人が犠牲になりました。
26日は港の中の公園に建てられた慰霊碑の前で献花式が行われ、遺族や能代市の職員などが集まり、次々と花を手向けました。
多くの人が犠牲になった日本海中部地震から42年が経ちました。
あの日を忘れないために。今年も各地で追悼の祈りが捧げられました。
(05/26 18:11 秋田放送)
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