■戦後80年「幻の飛行場」絵本に込められた動員学徒の思い (岩手県)
「戦後80年」のシリーズです。日本の敗戦が色濃くなる中、奥州市に2000人を超える中学生を動員して建設された「幻の飛行場」がありました。当時の記憶を伝える絵本に込められた動員学徒の思いを見つめます。
「幻の飛行場」の建設に動員された男性が生前最後に残したスケッチ。
男性の妻
「やっぱり自分のできる最後の仕事だと思ったんじゃない」「あのとき俺は死んだんだって言うの」
男性の教え子
「描いている絵や文字がすごい力があって、何とかこれを伝えたい残したいというのがありますよね」
「戦後80年」 絵本に宿る戦争の記憶です。
奥州市胆沢小山。ここに80年前にあった「幻の飛行場」の記憶を伝える石碑がひっそりと佇んでいます。
「小山飛行場」、正式名称は「陸軍水澤飛行場」。終戦のひと月半前に竣工した特攻専用の飛行場でした。
どんな飛行場だったのか。当時の航空写真には長さ1.2キロメートル、幅60メートルの滑走路が映っています。周辺には、車輪がついた移動式の建物や木々などがあり、飛行場であることをカモフラージュしていましたが、米軍には見破れらていました。
当時の軍事機密の地図には、特別攻撃隊「特攻」の秘匿飛行場を示す点線の丸印が「水澤(=水沢)」の地名とともにつけられています。
この飛行場の建設には、現在の盛岡商業、宮古高校、一関一高など少なくとも県内18校からおよそ2000人の少年が動員されました。
テレビ岩手が2007年に取材した動員学徒の男性は、このように話しています。
小山飛行場 動員学徒
「いまの子どもたちには想像できないことがいっぱいあった」
この映像は、県内初の飛行場、「最北の特攻基地」とも呼ばれた北上市の後藤野飛行場建設の様子です。1938年の建設当時、学生の本分は学問という原則が守られ、各学校交代で2泊3日の作業でした。
一方、小山飛行場の建設開始は、米軍が沖縄に上陸した終戦の年の4月。資材も労働力も不足する中、入学したばかりの中学生は教科書を開くことなく長期間、缶詰め状態で重労働を強いられました。
小山飛行場の建設に動員された少年たちを描いた絵本、「とばないひこうじょう」。絵本のスケッチをしたのは、旧制一関中学3年生のときに動員された森田純さん、本名・純巨さんです。
大学卒業後に、出版社の学習研究社映画製作部に入社し、「ムツゴロウさん」の愛称で親しまれた同僚の畑正憲さんと映画部を創設。森田さんは、教育映画祭で最高賞を受賞するなど活躍し、映像作家として独立しました。
仙台や岩手に事務所を構えて活動した森田さんが2005年に亡くなる前、病床で最後に描いたのが小山飛行場の記憶でした。
絵本には、80年の時を越えた今も現地に一部が残る大きなローラーを人力で引き、土を平らにする様子。入浴はひと月に1度。湯を入れ替えずに多くの人が入るため、たちまち真っ黒ドロドロに。食事は少量のごはんで、働きづめの少年たちはいつも空腹。中には、ヘビの皮を頭から尻尾まで一気にはいで焼いて食べた人も。当時は、ヘビの姿が消えたと伝わるほどです。
森田さんの妻・珪子さん(92)。森田さんの仕事を手伝うなどおよそ40年の間柄だった黒澤弥悦さん(72)です。
黒澤さん
「(病床に)見舞いに行ったときこれ(スケッチ)を書いて見せてくれたということは、相当なつらさなどをずっと抱えてきたのかなと思った」
「すごいじゃないですか本当に。言葉は悪いけど殴り書き、勢いで書いている。それだけ純先生にとってはこの時の体験はすごかった」
妻の珪子さんには、傍観するしかなかったつらい記憶を伝えています。
妻・珪子さん
「『とばないひこうじょう』の表には出ていないけども、腹が減ったためにいじめや人間を差別する気持ちが当時はあったと、痛切に夫は言っていた」
描かれていない「いじめ」の記憶。森田さんの小学校からの友人で一関中学校から一緒に動員された千葉明さんは、手記にこう書き残しています。
手記の原稿
「私は正直な話、あのような時にすごいいじめがあったことに一番憤りを感じています。被害者が実名で当時の事をバラシてくれないかとさえ思っています。このように書いていても心がムシャクシャ してくるほどですから」
限られた食料の配分をきっかけにいじめが起き、被害者は顔から血が出て、ひどく腫れあがるほど暴力を振るわれましたが、森田さんと千葉さんはただただ傍観するしかありませんでした。
珪子さん
「もう殺しあうくらい(いじめは)きつかったと言っていた。狂暴になる」「(被害者を助けられず)死ぬほど嫌だったと亡くなる前に言っていた」
肉体のみならず精神をも追い込みながら、3か月足らずで竣工した小山飛行場。しかし、特攻機は一度も飛び立つことなく幻のまま終戦を迎えました。
黒澤さん
「この事実を絵本を通して知ってもらいたい」「犠牲になるのは子どもたち」「(森田)純先生が動員された年代(15歳)の方々そういう方々にももっともっと知ってもらえれば良い」
少年たちの青春を奪った戦争の記憶は、終戦から80年が経った今も絵本の中に宿り続けています。
生前の森田さんに3度も飛行場に案内された教え子の黒澤さんは、絵本を通じて「飛行場が一度も役目を果たすことなく幻に終わり、人の命を奪わなくて良かったと安堵する思いも感じる」と話していました。
「戦後80年」のシリーズでした。
(10/31 19:12 テレビ岩手)
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