NNNニュース

【戦後80年♯2】「いまを、戦前にさせない」久慈・防空壕と98歳軍隊経験者の証言(岩手県)



 今年は「戦後80年」です。世界で戦争が起きる中、プラス1では系列局のテーマ「いまを、戦前にさせない」のもと、平和の尊さについてシリーズで考えます。

 余り知られていませんが、久慈市では終戦間際の1945年昭和20年8月に空襲を受け犠牲になった人がいました。久慈市の戦争の跡や、軍隊を経験した98歳の男性の証言をお伝えします。

 久慈市の中心部巽町には、太平洋戦争のさなかに掘られた防空壕が残っています。この防空壕は、高さがおよそ2メートル、幅が1.7メートルから2.8メートルほど、奥行きはおよそ25メートルもあって、戦地に行かず久慈にいた高齢の男性や女性も掘削作業に加わったと言います。今は久慈市の地域おこし協力隊として熊本県から久慈に移住している山下竜司さんが借り受けています。

山下竜司さん
「昔、人が掘って戦争の時に使ったということは聞いています。人がこういうふうに掘らないといけないというか、人のすごさということと、ここまでしないと空襲を防げないという空襲の怖さを感じますね」

 長崎に原爆が投下され、釜石は艦砲射撃を受けた終戦間際の1945年昭和20年8月9日。久慈市教育委員会によりますと、市内では4か所で空襲があり玉の脇地区では1人が死亡1人が重傷を負いました。

 久慈市役所の庁舎がある川崎町。ここ一帯は、戦前の1939年から1967年まで川崎製鉄久慈工場がありました。久慈工場は全国で唯一の砂鉄を使った近代製鉄所で、軍需工場とみなされたことから、久慈が空襲の標的になったものと見られています。実際、戦争末期は物資不足で製鉄所として操業はしていませんでしたが、1945年8月15日の終戦直前の9日に久慈工場も機銃掃射を受けました。

久慈市教育委員会文化課 中野敦夫課長
「久慈市も召集されて800人以上の方が戦没されているという事実もあるし、その中で空襲の被害というものがあまり語られる機会がなかった。実際にはこういった空襲というものが久慈にもあったのだということを知っていくことは大事なことだと思う」

 久慈市小久慈町に住む日沢常造さんは、1926年大正15年生まれの98歳です。今も畑仕事をしている日沢さんは、元気に急な階段を上ります。この先には、戦死した地区の人を悼んで1951年、昭和26年に日沢さんがお父さんと作った小さな社があります。

日沢常造さん
「本家の人も戦死していますからね。ここも戦死、ここは二人戦死亡くなっていますから」

 日沢さんが住む久慈市小久慈町の下柏木地区には当時35軒がありましたが、この地区だけで14人が亡くなりました。みな20歳代から30歳代前半の若い男性ばかり。アジア各地で戦死しました。

 日沢さんも県立久慈農林学校を卒業前の17歳の時に、海軍飛行予科訓練生として土浦海軍航空隊に入隊しました。

 当時の若者がみな憧れる予科練に入隊するとあって、仲間たちが送別会を開いてくれました。日沢さんは当時の思いを「別れのうらには死が待ち受けている」と記しています。

日沢さん
「予科練時代特殊任務(特攻作戦)に就くのを希望する者は手を上げろ、一歩前に出ろと、全員一歩前に天皇のために特殊任務に就くと全員出たわけですが、それから選ばれていったのは特攻隊に行って帰らなかった。それに(私が属していた)13期生はつぎ込まれた。私らが小学校に入ったときには「サイタサイタサクラガサイタススメススメヘイタイススメ」というところから始まった。ずっと計画的に軍備拡張をやっていた。だからそれを当たり前だという教育の仕方をされてきた」

 予科練を卒業した日沢さんは大井海軍航空隊の偵察練習生となりましたが、戦地に赴くことなく終戦を迎えました。

日沢さん
「こっちは幸い生きて帰ってきたからどうということもなかったが、多くの人は戦死して骨も帰ってこないような状態。そんな時代が来ないようにしなくてはいけない」

 日沢さんの妻マサ子さんは戦争中、学徒動員で宮城県船岡、現在の柴田町船岡の火薬工場で働いていて仙台空襲を目の当たりにしました。

日沢マサ子さん
「仙台の大空襲その時はびっくりしました」
Q 通っていた工場から見えたんですか?
「空が真っ赤っか、飛行機も飛んだりして見えました。防空壕から戦うことはだめだと思います。平和であってほしいから戦争はだめ」

 戦後80年が経った今も、地域で戦死した人のために急な階段を上り続ける日沢さん。「いまでも当時の夢をみる亡き戦友の冥福を祈る」と記しています。

(05/27 19:19 テレビ岩手)

TOP

Copyright(C)NNN(Nippon News Network)