■【戦後80年】戦時下の教育 90歳の元教諭語り継ぐ記憶(岩手県)
「戦後80年」のシリーズです。戦争体験者が減り、若い世代に語り継ぐことは難しくなっています。戦時下で行われた「教育」を通して、若い世代に伝えたい教訓について考えます。戦時中の経験を鮮明に記憶する紫波町の元教諭の男性を取材しました。
紫波町の桜の名所「城山公園」。
内城さん「戦没者の名前が書いてあります。紫波町全体では1007人ですが、平和塔なんですが、いつまでも天井を指して平和でありますようにという祈りが込められている」
紫波町出身、在住の内城弘隆さん90歳。県内外の小学校で教壇に立ち、校長も務めた戦後の教育者です。
戦争に突き進んだ戦時下の教育を受けた一人として今思うこと。
内城さん「いまは恐ろしいと思う。教育の力は恐ろしい子どもたちの一生を左右する考え方を作っていくということ」
町内でキリスト教保育を100年以上行う認定こども園です。
内城さん「ここです。ここが日詰教会」「昭和16年に私は(教会の)付属の幼稚園に入園することになりまして」
内城さんは、太平洋戦争が始まった昭和16年、1941年に子ども園の前身である日詰幼稚園に入りました。
内城さん「一番覚えているのはいろんな歌と遊技その中でも昭和の子という歌がありまして」
内城さん「昭和昭和昭和の子ども僕たちは姿もきりり心もきりり花花花なら菊の花。菊の花ってことは天皇陛下の花ですよね。そういうことで日の丸の旗を立てたりしてやっぱり軍国主義的なそういう教育も幼稚園でもやってたんですよね」
しかし、当時の園長の佐藤貞一牧師はキリスト教への偏見から日詰警察署に拘禁され、解放されたのは終戦後のことでした。
日詰幼稚園を卒園後、今の日詰小学校に通った内城さん。終戦を迎える4年生まで戦時教育を受けました。
内城さん「当時の先生方は軍国教育を受けてきている。お兄さんたちのように立派な軍人になりなさいとよく指導されたんですね」
当時の修身の教科書、現在の道徳にあたります。
「ここです。キグチコヘイは敵の弾に当たりましたが、死んでもラッパを口から離しませんでした。突撃のラッパだと思うんですが、弾が当たって死んでしまうが、それでも使命感から口からラッパを離さなかった」こういうのがお手本こういう軍人になるんだよと戦争へ気持ちが高まっていくということはあったと思う」
80年前の校庭の記憶も蘇ります。
内城さん「よく見てましたね。鉄砲を担いだり、農学校の生徒が訓練を受けているところを見たり、自分たちも走ったり行進したりしましたね」
当時は、農学校と女学校の学び舎も併設されていて、校庭では今や信じ難い訓練が行われました。
内城さん「校庭に大きな穴がありました。この辺に大きな直径10メートルくらいのすり鉢状の穴があってどれをグルグルグル周るそれは将来戦闘機に乗った時頭がグルグルならないようにそれのための訓練」
内城さん「それからこっちの広場で農学校の生徒が鉄砲を持ってこうやって膝をついて進むんです」
農学校の生徒は、模擬銃を手に障害物を乗り越えて標的を突き刺し、女学校の生徒も手りゅう弾に見立てた棒を投げる訓練をしていたそうです。
内城さん「(米軍が)本土上陸してきたときには戦うんだということ」
80年前、戦況が悪化の一途をたどる中学校近くの「城山公園」から、伊勢神宮と靖国神社に向かって敬礼し、日本の勝利を神に祈った内城さん。「戦前」を知る「戦後」の教育者としての願いがあります。
内城さん「そういう(戦時)教育を受けて何の疑いもなくみんなに(戦地に)送られて帰ってきた人も帰ってこない人もいる」
内城さん「残念ながら平和が長く続くとそれから遠ざかって忘れてしまう。遺族で語る人も少なくなってきているし実体験を持つ人もどんどん少なくなっている」
内城さん「(現役の)先生方にも頑張ってほしいし、(若者の)お父さんお母さんもこういう不幸な出来事をもう一度見つめなおしてしっかり(子どもたちに)教えてもらえればと私は思います」
(09/05 18:34 テレビ岩手)
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