■【特集】戦後80年「いまを、戦前にさせない」♯3 紙芝居「きわちゃんのねがい戦争のない世界を」終戦当時9歳の女性の体験と平和の願い(岩手県)
今年は「戦後80年」です。世界で戦争が起きる中、プラス1では系列局のテーマ「いまを、戦前にさせない」のもと、平和の尊さについてシリーズで考えます。いまから80年前、終戦直前に、沿岸の宮古市も爆撃で大きな被害を受けました。
戦争を繰り返さないために、当時の辛い思いを紙芝居にして若い世代に伝えようと活動する88歳の女性を取材しました。
(紙芝居)
「凄まじい爆音、爆風で駅の近くにお家のあったきわちゃんは、怖い、怖い経験をしました」
紙芝居にかかれているのは、9歳の女の子が経験した実話です。
小笠原喜和子さん
「屋根すれすれの飛行機が、爆弾を落とすっていうところを見てね、爆風と爆音と、そして玄関から“ぶわー”っと土煙が入ってきたのとね、あぁもう死ぬんだな、ここで死ぬんだな、死ぬっていうのはこういうことなんだなって」
宮古で生まれ育った小笠原喜和子さん、88歳。終戦の年、1945年に経験した空襲の記憶を今も忘れることができません。
3人姉妹の長女だった喜和子さん。宮古が空襲を受けた1945年当時は9歳で、愛称は「きわちゃん」。父親は戦争に行ったため、一家4人、宮古駅の近くで暮らしていました。
あわせて3度あったとされるアメリカ軍による宮古への空襲。きわちゃんの家は無事でしたが、特に被害が大きかった藤原地区は、ほとんどの家屋が燃えてなくなり、壊滅的な被害を受けました。
喜和子さん
「空襲警報のサイレンがなるでしょ。そうすれば私はね、大きいリュックサックをしょわされて、“おまえはこれしょえ”って母親にしょわされて右往左往したことを覚えてますがね」
何度も何度も怖くて辛い思いをしたきわちゃん。「きわちゃんのねがい戦争のない世界を」と題した紙芝居は、去年、自分の体験を若い人に伝えようと、喜和子さんが原案、絵と文を友人の中屋さんが担当して作り、以来月に数回、中屋さんが読み手を務め市内で披露しています。
(紙芝居)
「きわちゃんのお父さんとおじさんにも召集令状、戦地に行くことが書いてある紙が届きました。この令状は、赤い紙に書いてあるので、赤紙と呼ばれていました」
1944年6月に出征した喜和ちゃんのお父さんと叔父さん。お父さんは補給部隊として船に乗った後、無事に帰ってきました。しかし、叔父さんはアメリカ軍の侵攻を食い止めるため、硫黄島で戦い、帰らぬ人となりました。
喜和子さん
「なんの訓練もしないままね、11月に硫黄島に連れてかれてんだよ、うちの叔父は。盛岡のデパートに勤めていたうちの叔父は。デパートで呉服売り場に勤めていた人がね、なんの訓練も受けないままね…」
紙芝居には、お父さんが無事帰ってきてうれしかったこと、そして、「名誉の戦死」と言われて命を落とした叔父さんの「お骨」が入っているという骨箱が届けられたときのつらい思い出が描かれています。
喜和子さん
「そしたらそこに祖母がいてね、“ほれほれみんなさ見せとがん。骨箱の中みせとがん”ってしゃべってね、骨箱を開けて、“みんなしてみんな見どがん”そしたっけ、砂とそれから木のかけらが入ってたったの。“ほれ戦争ずーのはこういう事なんだーよ。見どがん。骨の、お骨のひとかけらも入ってねーが。どこでどんな死に方したか分からんねーんだよ。戦争っていうのはこういう事なんだからね。ちゃんと見ておいどがん”ってね、祖母がしゃべった言葉をいまでも覚えてるね」
5月3日、宮古市民交流センターで、きわちゃんの紙芝居が披露されました。
(紙芝居)
「またある時はサイレンが鳴り、おばあちゃんと妹と、3キロぐらい離れたところにある防空壕まで急いで走り逃げたこともありました」
上演会には多くの市民が訪れ、80年前、9歳の女の子が宮古で経験した辛い思い出にじっと耳を傾けていました。
参加者2人
「戦争後に生まれた私ですけども、あんなのはあると嫌ですね」
「自分は本当にリアルに体験はしたことはないけど、でも自分の経験の中に埋め込まれたような気がして」
喜和子さん
「自分たちには何の力もないけれども、みんなに戦争っていうのはこういう風に辛いこと、酷いことなんだよ。悲しいことなんだよ、辛いことなんだよって事をね、分かって欲しいなと」
きわちゃんの思いを若い人に伝えたいと作られた紙芝居。
最後は、こう締めくくっています。
(紙芝居)
「どうしたらこの地球上から戦争を起こさないように出来るでしょうか。喜和ちゃんの心が皆さんに届く事を願っています」。
(05/30 18:38 テレビ岩手)
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