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【戦後80年】きっかけは1枚の写真…武田真一と考える熊本の「戦争孤児」(熊本県)



(緒方太郎キャスター)
いつもはリモートでご出演の日本テレビ「DayDay.」MCで熊本出身の武田真一さんが、スタジオに初めての登場です。東島大記者と3人でお伝えしていきます。
今回のテーマは「戦後80年」です。実は、戦争と熊本について調べていて1枚の写真を見つけたのが今回の特集のきっかけになりました。

この写真は終戦の年、1945年の11月に熊本駅でアメリカ軍が戦争孤児を撮影した写真です。
記録によれば、写っているのは推定年齢16歳の少女です。
栄養失調で瀕死の状態で、右足をケガしていますが、治療を受けていないため、感染症で異様に腫れ上がっていると説明がつけられています。

同じ頃にアメリカ軍が撮影した熊本駅の写真。こうして列車を待つ人たちの傍ら、戦争で親を亡くした孤児たちが暮らしていました。

(緒方太郎キャスター)
終戦から3年後、1948年の国の調査で全国に12万人以上の孤児がいたことがわかっています。
このうち熊本県の孤児は3076人。内訳は男の子が1666人、女の子が1410人。1〜2歳が36人、3歳が30人、4〜7歳が327人、8〜14歳が1564人、15歳〜20歳が1119人とされていますが、実際はもっと多かったと言われています。

(東島大記者)
こうした熊本の子どもたちはなぜ孤児になって、どういう暮らしをしていたのでしょうか。
その一端を民間の保護施設が保管している当時の記録から読み取ることができました。

熊本市の藤崎台童園です。孤児たちを保護する活動をしていた団体が中心になり1949年に今の場所に設立されました。
孤児たちの情報を記した記録が今も残っています。今回、初めてテレビカメラの前に公開していただきました。
朝鮮半島で生まれた14歳の少年は、終戦時に父親を殺され、母親は行方不明になりました。
13歳の少年は父親が戦死し、さらに7月1日の熊本大空襲で母親を亡くしました。
当時12歳だった少年は3歳で父を、7歳で母を亡くしたあと親戚に預けられたものの追い出され、熊本駅付近を放浪している時に保護されました。こうした受け入れ先での虐待は珍しくありません。
鹿児島県出身の13歳の少年も、虐待されて逃亡し、2か月ほど放浪生活を続けていた ところを保護されたとあります。

この虐待の問題ですが、子どもたちが当時を思い出してつづった文集にもその一端が書かれています。武田さん、おねがいします。

(武田真一さん 朗読)
これは親戚の家に預けられていた子どもの思い出です。
「おばさんは朝から元旦の用意をしていた。そこの子どもたちはがつがつ餅を食べているのに、僕にはひとつかふたつしかくれない。 ぼくにはこれがいちばんつらかった」

(東島大記者)
しかし一方では、ひとりで生きることを選んだ子どもたちも多くいました。そうした孤児たちが生活の場にしたのが闇市。終戦直後の熊本はどうだったかといいますと、こちらをご覧下さい。

終戦から4か月後にアメリカ軍が撮影した熊本市の中心部です。一面焼け野原が広がっています。がれきの横を腰からサーベルを下げた警察官らしい人物が歩いています。

これは辛島町にあった闇市。ほかにも長六橋付近、新市街から下通などに大きな闇市があったそうです。
1947年に熊本県警が調べたところ子どもの靴磨きが38人、ヤミたばこ売りが16人、握り飯売りなど物売りが13人いたとしています。

新市街、現在の辛島公園付近で女性が靴磨きをしている写真です。靴磨きは孤児や女性たちが生計を立てるための大事な仕事でした。

(東島大記者)
当時の厚生省がまとめた「ララ記念誌」という公式文書があります。この中に熊本市内で靴磨きをしていた13歳の孤児の手記を見つけました。彼は関西地方で親と死に別れ、靴磨きをしながら熊本へたどり着きます。

(武田真一さん 朗読)
「熊本駅に着いてびっくりしたのは、煙草売りの多いことで、若い女の人、又年とった老人、子どもを背におぶった婦人などいろいろな人が手製の煙草を売っていた。あっちにもこっちにも靴磨がいた。大部靴墨もへったし、はけも古くなったので材料を買わなければならない。そこでいつもよりもうんとがんばって、二百円余りもうけた。その時私の頭に浮かんだのは、 母の顔だった。すると、涙がとめどもなく流れ出て仕方がなかった。この時「母がいたらなあ」とつくづく思った。母がいたらこんな有様では無かったろうにと、三年前母と一緒に暮らしていた過ぎし日のことをしみじみと思い出してさめざめと泣いた」

(東島大記者)
この靴磨きの孤児もそうですが、戦争孤児は熊本なら熊本にとどまっていたわけではないんです。少しでも暮らしやすそうなところを探して全国を流れ歩いていました。保護記録を再び見てみましょう。

■保護記録
広島市に住んでいた9歳の男の子。父親が戦死し、母親は原爆で亡くなりました。その後兄と一緒に熊本まで流れてきたところを保護されています。
やはり広島市に住んでいた14歳のこの少年は、両親と6人のきょうだい全員を亡くし、熊本で保護されました。
8歳の女の子は、警察官がみつけて施設に連れてきた時、精神に異常をきたしていたと書かれています。どこから来たのかはわかりませんでした。


(東島大記者)
熊本を代表する作家・石牟礼道子さんの19歳の頃の写真です。石牟礼さんがその19歳の時に初めて書いた作品がこうした孤児がテーマでした。

こちらに収録されている「タデ子の記」という作品です。終戦の翌年、石牟礼さんが鹿児島線の汽車の中で出会ったやせ細った15歳くらいの孤児の少女。やはり精神的に尋常ではなかったと書かれていますが、そういう少女を自宅に連れ帰り、再び別れるまでの50日間の出来事をつづった作品です。

(武田真一さん 朗読)
「私は伸び放題の髪をすいてやろうと思いつき、櫛をとり、タデ子のアゴに手をかけ、ギョッとしました。「それは全く、骨という感じだったのでございます。私はその冷たい骨の感触と、ゴマを一面にふりまいたような、シラミの卵を見ましたとき、とうとう涙がこぼれてしまいました。とても、その体では歩けまいと思い、背中を向けてせおったとき、また私は泣きそうでした。まるで木のかけらか何かのようでございました」

この作品は、単に弱い者に寄り添うというだけではなくて、戦争という大きな理不尽な力に押しつぶされる子どもたちの姿となんとか守ろうとする人々を描くと言う点で、のちの水俣病を描いた作品に通じるものを感じる、原点といえる作品になっている。

(緒方太郎キャスター)
きょうはスタジオに武田真一さんをお招きして、熊本の戦後80年、戦争孤児についてお伝えしました。

(07/25 21:00 熊本県民テレビ)

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