2020年7月4日

昭和の豪華・ゴージャスPART3

昭和46年生まれ48歳の高橋裕です。

今週は「昭和の豪華・ゴージャスPART3」で30分。

 

実家のシャンデリア蛍光灯の写真を撮影して参りました。
その下に布団をひいて寝ていましたので、長いヒモ!
そして、その先に赤いミカンのネットが付いているのが
今もなお昭和です。
↑↑↑
HPで写真を載せましたが、
赤いミカンのネットが写ってないのが残念~!

私と出会う前30年以上前、国鉄がJRになるので、
退職した地元の友人と2人でハワイ旅行に行ったそうです。
ホテルは高級ホテル、そして、豪華と言えば、
先週から話が出てますがステーキです。
「テンダーサーロインステーキ」
その時、初めて聞いた名前、
そして、それはそれは美味しかったとか。
そして数年後に私と出会い、新婚旅行もハワイ。
その時平日にいったからか、飛行機がすいていたのか、
エコノミーの料金なのにファーストクラスの席に
変更になったのです。
席はゆったり、それはそれは快適で豪華でしたよ。
しかし帰りはエコノミー、雲泥の差でした。

高校3年生の時、転校してきたM君が
「小学5年生の頃から、お正月は毎年両親とハワイに行きよる」
と言った時、当時担任だった先生の「おまえは芸能人か」の
言葉にクラス中皆大笑いしました。
私が「誰か芸能人に会うた?」と訊いた瞬間、
普段あまりしゃべらないM君が
「初めて見たのは、たのきんトリオ。
次に見たのは、五木ひろし。笑福亭鶴瓶と西村知美に
サイン貰うた」と嬉しそうに話してくれました。

ゴージャスな光を見せてくれたのが毎週土曜日の夕方…
つまり、夕飯時に放送していた全日本プロレス中継。
あの頃、毎シリーズいろんな外国人レスラーが登場しましてね、
ハリウッドスター大挙来日みたいな輝きが
灰色の食卓を照らしていたのですョ。
中でも豪華でゴージャスだったのは
「千の顔を持つ男 ミル・マスカラス」でした。
さらに弟のドスカラスも加わりマスカラスブラザースとして
参加となれば輝きは1+1=2ではなく、100にもなったのですね。
マスカラスは、夏場のサマー・アクション・シリーズに
来日する事が多く、次期シリーズの来日外国人レスラーの
紹介時にマスカラスを観た時からテンションMAX!
生徒手帳にもマスカラス来日を書きこんだくらいです。
シリーズが始まれば、ジグゾーのスカイハイに乗って
登場のマスカラス。「ナントカ県立体育館」の花道を
少年ファンに揉みくちゃになり登場。
リングコール時にはマスクの上に被ってる
きらびやかなオーバーマスクを脱ぎ取り客席に投げ込み、
ファンは大騒ぎの奪い合い。テレビで観ている私も
「オォォォ~ッ!俺も欲しい~ぃ!」と興奮!
オーバーマスクの下の本日のマスカラスマスクも楽しみで、
もう、対戦相手は気の毒なぐらいに目に入らず、
華麗なフライングクロスチョップやドロップキックに声を上げ、
クライマックスのコーナーポストからの
フライングボディアタックで興奮絶頂の叫び声を上げ、
親から「黙って観ろ!」怒られるのですが、
そんなもんは耳には入らない。
あの時のマスカラス、リングに立っているだけで
ゴージャスだった。夢があった。
私の思春期のカオスな心をディスコのミラーボールの様な光で
照らしてくれたんだよなぁ。

 

さて、次週7/12はテーマチェンジです。
次週は「昭和の紛失・落とし物」。
家でイヤリングがない、リモコンがない、
へそくりが見つからない。
出かけた先で財布・定期、傘、パスポート、
道路に落ちている軍手etc.
それが見つかった・出て来たという昭和の思い出話を
お待ちしております!

2020年6月28日

昭和の豪華・ゴージャスPART2

昭和46年生まれ48歳の高橋裕です。

今週は「昭和の豪華・ゴージャスPART2」で30分。

小学生の頃、サンフラワーという豪華客船がありましたよね?
ある団体の催し物で、九州から関西まで無料でいきました。
船内は豪華で、迷った時の経路が床に表示されるシステムや、
屋上にはプールもありました。ガラス張りになっていて
魚もみれたり、夕食がステーキだったりしました。

父親が誕生日にデコレーションケーキを
買って来たことが有りまして、それを食べたら食当たり!!
田舎者には豪華は馴染まないと感じた幼少期です。
親父は豪華が好きで、低い2階の天井に
話題となっている蛍光灯のシャンデリア照明を付けました。
畳にじゅうたんを敷くと言うのもゴージャスでした!!
でも、直ぐに虫が付いてむずむずするから除けましたけど!!
そんな昭和です。

幼稚園から小学生だった昭和40年代。
下関に住んでいましたので、日曜日に母親が
「大丸に行くよ!」と言いますと、
豪華なモードのスイッチが入りました。
子供の私は背広に着替えさせられて、革靴みたいなクラリーノ。
バーゲンに付き合わされた後、レストランへ。
お子様ランチのオレンジ色のご飯に
大丸マークの旗が立っていて、横にプリンが…。
食後には、ソフトクリームを食べて、口の周りが真っ白に。
この上無い豪華な日曜日だったんだろうな~っと、
今、感じています。

「昭和のゴージャス」といえば、ズバリ「舶来品」です。
父は、仕事の関係で、しばしば海外へ出張に出かけていました。
いわゆる「商社マン」でした。
私が小学生の頃(昭和40年代後半)、
海外出張のお土産の定番といえば、男性向けはウイスキー、
女性向けは香水や化粧品。ウイスキーはジョニ黒、
香水や化粧品は、シャネルやディオールが大人気だったようです。
その一方、お酒も化粧品も縁のない、
小学生の私へのお土産はというと、当時まだ珍しかった、
スヌーピーの小銭入れやタオル、シールなどでした。
タオルは、厚手でふんわり。いかにもゴージャス!
昭和40年代の日本のタオルは、手拭いのような
薄っぺらい物が主流でしたから、私は、そのタオル1本だけで、
「お父さんってスゴイ!」と尊敬の念を抱いたものでした。
1ドル=350円ぐらいの時代には舶来品は憧れの的でしたよね。

今から35年以上も前、化粧品の店頭販売をしていた時の事です。
駅ビルで各メーカーの美容部員が和気藹々と…仲良くやっていました。
美人が多かったですが、中でも(S社の)Yちゃんはスマートで
背が高く色白美人、うっとりするくらいでした。
ある日、年配の紳士が真っ直ぐYちゃん目指してやって来て
「君のお勧めの香水はどれかね?」と、
Yちゃんはノルマのかかった?2万3千円もする香水を勧めました。
すると「君にプレゼントするよ」と現金2万3千円を
ポンと置いてそのまま立ち去りました。
他の美容部員は大騒ぎ!
当時2万3千円のゴージャスな香水なんて手が届かず、
滅多に売れません。
みんなで小瓶を持ち寄り、Yちゃんにタカリました。
その紳士はそれっきり、彼女はおじさんに言い寄られる事もなく
高い香水をもらったのです。美人は得だな~と思いました。

さぁ、次週7/5も「昭和の豪華・ゴージャス」で行きましょう。
久々の3週連続のテーマ。
まだまだご紹介したいネタがございますし、
放送を聴いて思い出したネタがありましたら
ネタを送ってください。お待ちしております!

2020年6月21日

昭和の豪華・ゴージャス

昭和46年生まれ48歳の高橋裕です。

今週は「昭和の豪華・ゴージャス」で30分。

 

私は5人兄弟でした。
母が今日はステーキと言ったら、全員が、オー!と
言っていました。月に1回くらいでしたが。

小学校に入学してすぐ友達になった由美ちゃん。
間もなく由美ちゃんは同じ町内に家を新築して引っ越しをし、
私を招待してくれました。
ホテルのようなドアの玄関を入ると、
いきなり大きなフロアで、なんと大きな卓球台がありました。
1階にはお父さんの仕事の事務所と、
仕事を手伝う親戚の人の部屋があり、2階に上がる階段、
スペースも広くてホテルのロビーのようでした。
2階にも何部屋かあり、その中の一つ、
由美ちゃんの部屋に入ると綺麗な白いレースのカーテンと
花柄のカーテン、ベッドのカバーもお揃いの花柄で
壁も花柄だったかと思います。
まるでお姫様の部屋のようでした。
コタツとコタツ板で自分の「なわばり」を作った
私の部屋とは雲泥の差です。
由美ちゃんのお父さんは建設会社の社長で、
お母さんは大きな宝石の指輪をいっぱいつけていました。
私は(早くも?)小学1年にして「大金持ち」との格差を
知ることとなったのです。

私の友達のお誕生日会に行った時、
ゴージャスな鉄筋コンクリートの2階建ての家で、
リビングにはシャンデリア、ダイニングテーブル、
エマニエル夫人が座っているような椅子、
7段飾りのお雛様、ゴージャスなフワフワソファー、
お誕生日会のメニューは、キラキラ光るオシャレな
ガラスの器にスティック状に切られた西洋野菜の数々。
クラッカーにブルーチーズ、お母様特製のピザ、
何もかもが私には生まれて初めて見る物ばかり。
友達に「毎日、こういう食べ物?」と聞くと、
友達は「そうよ!毎日がこんな生活よ!あなたは?」
と聞かれて、私は「大根葉の漬け物、味噌汁、ご飯よ!」
とは言えないまま。
友達がまるでお姫様に見えて、
お誕生日会は目がまわるようなお誕生日会でした。
私は「住む世界が違い過ぎる!」と帰り道はぼう然としました。

私にとって豪華とは、昭和41年中学1年生の時に
広島のテレビ局のクイズ番組に出演した時の景品です。
親子のペアでクイズに挑戦し、
最後まで親子が正解して残っていると、
2万円の賞金と東亜国内航空の全路線の中から
好きな空港迄の往復航空券が貰えるというものでした。
冬休みに放映され、
新学期には私はクラスの英雄になっていました。
この時生まれて初めて飛行機(YS-11)に乗り、
父親と徳之島迄行きました。

小学生の頃、6色のお舟でええことになった父が
先ず本屋さんに連れていってくれて、好きな本を買うちゃる!
普段は「ひとみ」を購読していたのですが、
この時ばかりは「なかよし」「りぼん」を買ってもらえました。
それから夕食は、外食。
下松の「日本橋」で食事をしたことを思い出します。
鰻とか食べさせて貰ってたのかなぁ。
個室で家族で食事したのを思い出しました。

 

さて、次週も同じテーマ
「昭和の豪華・ゴージャス」で行きましょう。
エビが入っている、ミンクのコート、
桑田・斎藤・槙原の3本etc.
次週も皆さんから「昭和の豪華・ゴージャス」な話、
お待ちしております!

2020年6月14日

昭和のパンPART2

昭和46年生まれ48歳の高橋裕です。

今週は「昭和のパンPART2」で30分。

 

近所の雑貨屋で売っていた菓子パンは、
ずぅうっと、ずーと売れるまでありました。
あんパンの上に黒い粒々があるんで
ゴマかと思ったらカビでした。
店の婆さんに「カビがはえちょった」と伝えると婆さんから、
「そこぁーちぎってすてぇよ」と
当然の様に言われたのを覚えています。

子供の頃のパンと言えば、給食に出てきたパンですね。
コッペパンもありましたが一番は食パンです。
給食の食パンで思い出すのは、
休んだ友達にパンを届けることです。
家の近い子が、その日のプリントを持って行くのと一緒に
給食をパンをとどける。そして、届けるのを忘れ、
机の中に入れたままで、気がついた時には、
カビが生えている、なんてこともありましたね。

私が子どもの頃、食パンは8枚切りが主流で
6枚切りや4枚切りの厚いパンは
まだお店では売ってなかったと思います。
うちのトースターは焼けても自動でパンが上がらなかったので、
焼きすぎて黒こげになったパンを
母がよく包丁でコゲを削り落として食卓に出していました。
また、朝、頭にカーラーを巻いてネグリジェのまま
パンを買いに行く女の人を見たことがあるような気がしますが、
おおらかな時代だったのか、現実ではなくドラマだったのか、
記憶が曖昧です。

昭和のパンといえば、小学生の頃の
給食としてのコッペパンを思い出します。
ご飯よりも出る回数が多かった記憶があります。
たいていの男子は、おかずとして出ていたハンバーグや
ナポリタンなどをパンに挟んで食べてました。
私がお気に入りだったのは、
オーロラ鯨という名だったと思うのですが…
鯨の竜田揚げにケッチャプソースをかけ合わせたようなもので、
これを挟んで食べるのが一番好きでした。

 

さて、次週6/21はテーマチェンジ。
「昭和の 豪華・ゴージャス」で行きましょう。
山根さんご所望のテーマです。
昭和の頃自分が遭遇した豪華な体験、
どこかで見た豪華な部屋、シャンデリア、七段飾り、
金銀パールプレゼント、5段変速フラッシャー、高級車、
泊まってみたかった憧れのホテル、
お子様ランチにアイスまでつくetc.
次週も皆さんから「昭和の 豪華・ゴージャス」な話、
お待ちしております!

2020年6月7日

昭和のパン

昭和46年生まれ48歳の高橋裕です。

今週は「昭和のパン」で30分。

 

生粋の農家の家に当然パンはありません!
巡り合うのは給食のコッペパン。
付け合わせは、銀紙に包まれたマーガリンと
相場が決まっています。
食べる前にコッペパンの周りの焦げた固い部分を先にはいで、
そして、中にマーガリンを挟むのですが、だいたい固まって、
マーガリンがあるところと無いところに分かれて、
最後は味気なく終了します。
イチゴジャムの時は大変興奮しました!!
そして、余ったパンを白い給食袋に入れて持ち帰り。
気がついた頃には、カチンコチンで歯が立たなかった事は
多かったですね!!そんな時は、牛乳に浸して食べる。
パンに飢えていた少年時代でしたね。

私が小学校の時の給食で出たパンの中では
「揚げパン」がいちばん人気でした。
コッペパンをカラッと揚げ、ザラッとした砂糖が
たっぷりまぶしてある揚げパンを頬張ると、
口のまわりが砂糖だらけになってしまいましたが、
みんなお構いなく嬉しそうに食べていました。
砂糖だけをまぶしたノーマルなタイプ、
たまに、砂糖+きな粉をまぶしたレアなタイプ、
ごくたまに、砂糖+うぐいす豆のきな粉をまぶした
超レアなタイプと3種類の揚げパンがありました。
私は、給食に揚げパンが出る日は朝からウキウキし、
テンションが高かったことを思い出します。
砂糖がたっぷりの揚げパンは、大人になった今でも大好物です。

今では考えられませんが、
私が小学校に入学した昭和40年代は
「給食は絶対残してはならない」というのが
ごく当たり前のルールでした。
給食で嫌いなものが出るときは、
給食当番に盛り付けを加減してもらったものです。
でも、パンは1人に1つ必ず配られておりました。
パンが嫌いな子はあまりいませんでしたが、
同級生のS君は年に数回出てくるブドウパンが、大の苦手でした。
ブドウパンの日は、給食時間内に食べきることが出来ずに
食後の自由時間、午後の授業の5時限、6時限、ホームルーム、
掃除の時間になっても教室の隅のオルガンのところで
ブドウパンと格闘していました。
傍で見ていてかわいそうでした。
でも、こういった教育のおかげで、
S君はブドウパンが食べられる様になり、
おまけに他の偏食もなくなり、今では
「当時の担任の先生に感謝している」と話していました。
S君は現在、立派な教育者(大学教授)になっています。
今も、ブドウパンを見るとなぜか、
S君と小学校のオルガンを思い出します。

私にとってのパンといえば、やっぱり耳パンでしょう。
母親が近くのスーパーの中にあるパン屋で、
よくタダでもらってきたのを、
育ち盛りの兄弟4人でよく食べてました。
時には細長いビニール袋いっぱいの耳パンが手に入ることも。
揚げて砂糖かけておやつ代わりになんて…お家も
あるようでしたが、我が家では、やわらかい内は生で、
硬くなってくるとだるまストーブで焼いて
何もつけずに食べてました。
今でもたまにスーパーで見かけますが、
最近のは身が厚いですよね。当時の耳パンは、
だいたい真ん中に穴が開いててぺらっぺらでした。
けど、おいしかったなあ。

 

さて、次週6/14も「昭和のパン」で行きましょう。
休みの子のパンをプリントと一緒に届けてあげる、机や
ランドセルの中に入れっぱなしのパンはカビるわ堅くなるわ、
ボロボロに砕けたら散乱するわ。
焼きすぎたトーストの焦げもフォークでそぎ落として食べるetc.
次週も昭和のパン話、お待ちしております!

2020年5月31日

昭和のおじさんPART2

昭和46年生まれ48歳の高橋裕です。

今週は「昭和のおじさんPART2」で30分。

ドリフターズの加藤茶さんのおじさん役や
志村けんさんの「変なおじさん」が大好きです。
おじさんは、はらまきの中からおこづかいをくれました。
耳に煙草をはさんでいました。

うちの父親も腹巻きしてました!
必ず黒の腹巻きですが、金色・銀色・紫のラメが
それぞれ入っている腹巻きでした。
その中にタバコとか挟んでいたと思います。懐かしい~!!

小学生の時、私の家から小学校まで、
父の兄=おじさんちの家の前を通って登下校していました。
夕方、学校から家に向かって歩いて帰る時、
夏場は上半身は裸に腹巻とステテコ姿で、
家の前で腰掛けに座り、私を見ると
「みきやん今帰ったかね~」と話しかけてくれましたが、
友達数人と一緒に帰っていた私は、
下半身は下着1枚だけ履いていた時は
挨拶するのが恥ずかしかった記憶があります。
お小遣いをくれる時は、腹巻の中から千円札をくれたり、
お正月は腹巻からお年玉を出してくれました。
腹巻の中にはどれだけお金があるのか?
お金が落ちないのか?気になっていました。

小学校の学校の通い道に、「さようならおじさん」と
呼ばれているおじさんがいました。
下校時になると家の部屋の窓際に座って下校する
小学校のみんなに「さようなら」と声をかけてくれていました。
下校時はそのおじさんに会うのが楽しみでした。

小学5・6年の頃、父親にお使いを頼まれ、
よくタバコを買いに行っていました。
今だと子供のお使いとは言え、
タバコを買うなんてダメでしょうね。
行き先は同級生の所で、立ち飲みもやっている酒屋さんです。
親に頼まれての買い物なので、多分日曜日の昼間だと思います。
お店には昼間から立ち飲みして、
ワイワイ騒いでいる赤い顔のおじさん達。
僕が行くと「お使いかぁ、偉いな」と言いながら、
透明の四角い入れ物から、竹串に刺さったイカの
甘辛く味のついたのをくれたりしました。

小学校の頃、児童公園でゴムまりと棒切れを使って
野球をやっていると、フラリと現れ、
いつの間にか混ざって野球をしている
「野球じっこ」というおじさんがいました。
私は直接見たわけではないのですが、
近所の子供の間では噂になり、野球じっこの正体は
バカボンのパパだとか、
野球じっこの投げた球をホームランにした後、
駄菓子屋でビックリマンを買うとヘッドが当たるとか、
今でいうアマビエと座敷童子を足して2で割ったような、
縁起のいい妖怪みたいな扱いになっていました。
それから20年。
私が今の職場で働いて数年経った頃、
同僚の一人が、同じく同僚であるおじさんと、
こんな話をしていたのです。
「こいつ、昔は近所の子供らから『野球じっこ』と呼ばれてて、
よく児童公園で子供と野球やってたんだってよ」
なんと、あの伝説の野球じっこが、すぐ近くにいたのです!
野球じっこ本人は、
確かにバカボンパパ似の顔ではありましたが、
いたって普通のおじさんでした。
しかし年齢を逆算してみると、私が小学生だった頃、
野球じっこの歳は、30歳になるかならないかぐらい。
とてもおじさんとは呼べない年齢ですが、
昭和の頃って30歳はもちろん、早いと20代ぐらいから、
おじさんと呼ばれている人もいましたよね。
子供と一緒に遊んでくれるおじさんって、
親や先生には無い独特の面白さがあって、私は好きでした。

終戦直後の地域には、
子どもの世話をよくするおじさんがいたものです。
地域では、特攻帰りの気性の激しい人として
一目置かれる人でしたが、
子ども会の世話をしたり学校帰りの我ら子ども達に
よく声をかけたりしてくれていました。
遊水地の樋門の管理をしている人で、尊敬しておりました。
田布施川の潮が引くと土管の栓を抜き、
潮が満ち始めると栓をするのです。
潮の満ち引きは1日2回、40分ごとずれるので大変です。
大潮の夕方の満ち潮に、ふんどし1丁で
土管に栓をする勇ましい仕事ぶりをよく見学したものです。
潮が満ちてきて遊水地に入り始めると、
その吸い込む力を利用して、
わらで作った栓を腰まで水に浸かりながら
器用に栓をする姿には、惚れ惚れしたものです。
この池は海とつながっているので、
「ウナギ」や「どんこ」が沢山生息しておりました。
樋門を管理する人は、ウナギを捕る為に
竹のポンポツを池に沈めておりました。
さて、隣の柿は旨いものです。
いつも集団で遊ぶ昭和20年代の子ども達が、
この池のポンポツに目を付けない訳がありません。
2~3年生の見張りを付けて、頭の黒い高学年が池に入って、
ポンポツを上げ始めたのです。
ポンポツを斜めにして、手の間から水を出すと、
「おった!でかいのがおったぞ」
と、びくの中に捕まえたウナギを入れます。
十数匹捕まえて、凱旋し、みんなで分けたものです。
ある日突然、「来たぞ!逃げろ!」と見張りが叫ぶ。
みんな、蜘蛛の子を散らしたように逃げたのです。
ところが、とうとう見張りが捕まったのです。
逃げのびたみんなが集まり、如何するか協議し、
全員で謝りに行きました。
「断りなく採るのは、泥棒だっ!?捕らせてとお願いにくれば、
いくらでも捕らせてやるよ!
いいか、卑怯なことや悪いことは、絶対にするなよ!」
と優しく諭してくれたのです。
ウナギを採る手段は他にもいくらでもあったので、
それ以降、大好きなおじさんに迷惑を掛けることは
なかったです。

さて、次週6/7のテーマは「昭和のパン」で行きましょう。
以前、「昭和のパンク」や「パンに挟んだもの」は
テーマでやったと思うのですが、
「パンそのもの」はまだやっていなかったと思います。
残した給食のパンを机の引き出しに入れっぱなしにして・・・、
おばあちゃんは甘いコーヒーにトーストをつけて食べる、
お皿が貰えるシールが貼ってある食パンを買ってこいと
母ちゃんに指示されていた、
高橋少年は中学校の近くの店「ベル」の
揚げクリームパンが手に入った時は嬉しかったetc.
皆さんの昭和のパン話、お待ちしております!

2020年5月24日

昭和のおじさん

昭和46年生まれ48歳の高橋裕です。

今週は「昭和のおじさん」で30分。

高校生まで、下関に住んでいました。
そこでの、近所にいた「重太郎」オジサンのお話しです。
私が小学生の頃、お酒呑みでよく酔っ払って
我が家に上がり込みに来てました。
大声で喋って、うるさくて、毎回同じことを言うんです。
「嫁が家で、酒を飲ませてくれない」とか、
「『うるさい』って怒られる」とか…。
当たり前の事を言っていたような…
重太郎さん、酔っ払ってない時に会うと、
結構、シャイでおとなしい人でしたけどね…。

兄貴の同級生の石丸君のおやじは
いつも家にいて酒を飲んじょりました。
「ええもん見ッしゃろう」と
奥から「はみ」が入った一升瓶を持って来て、
「これくらいはきで飲まんにゃ男じゃなあでよ」と
昼からやってました。

若い頃の話…。
当時はカラオケボックスなどなく、
友達とつるんでスナックスタンドに行き、
1曲100円払って8トラカセットの曲で歌いました。
盛り上がっていると、隣にいるおじさん達と意気投合、
当時は景気が良かったのでしょうか、
「一杯飲めや」とご馳走してくれました。
ビールは苦くて飲めないので
ウイスキーのジンジャー割りを飲んでいると、
「ビールはな、味わってはいかん。
喉チンコまで一気に流し込むんじゃ」と教わりました。
言われた通りに飲んでみると苦味を感じませんでした。
それまでは何であんな苦いモノを飲むんだろうと
思っていましたが、そのおじさんのお陰で、
今ではビールオンリーになりました。
それから、その店で「紛れもなく音痴」と言える
おじさんを見ました。はばかる事なく
とても気持ち良さそうに歌っているので、
その姿を見たら可笑しくてずっと下を向いて
笑いを堪えていました。ほのぼのとした時代でしたね~。
今はみんな歌が上手ですね。

小学校低学年の頃、母親からよく言われていたのが、
「早く帰ってこんと、あっかやんがでるよ」でした。
「あっかやん」とは、赤い学生服の様なものを着たおじさんで、
小さい子供をさらっていくんだそうです。
たぶん間違いなくそんなおじさんは存在しなかったんでしょうが、
小学1・2年生にしたら、かなり怖かったのを覚えています。

さて、次週5/31のテーマも「昭和のオジサン」で行きましょう。
ステテコはおじさんのスーツよね。
夏でもニットの腹巻をしている、
腹巻から色々なものが出てくるetc.
皆さんの昭和のオジサン話、お待ちしております!

2020年5月17日

昭和の池PART2

昭和46年生まれ48歳の高橋裕です。

今週は「昭和の池PART2」で30分。

 

小3の時に、庭にひょうたん池のある官舎に引っ越しました。
真っ黒でドロドロになった池の水を掻い出すと、
中に小さなドジョウがいました。
きれいに水を替えて金魚を入れたら、
池が見える部屋は姉と私の勉強部屋だったのに、
父がしょっちゅうパンツ1枚で部屋に寝そべって
池を眺めるようになり、父親を避ける年頃だった姉と私は
「嫌だなぁ」と感じたことを思い出します。

小学生の低学年の時でしたから昭和50年ごろでしょうか。
近所の“堤”を埋め立てて宅地にする為に、
まず水を抜くというので、見に行きました。
そう、本当の「池の水、ぜんぶ抜く」です。
まず、自転車が沈んでいたことにビックリ。
さらに、でかい鯉やナマズがいて大興奮。
さらに、でかい黒い貝がいてビックリしました。
通称、ドブ貝と言われる貝ですが、食べれるんだぞ~と
近所のオジサンが持って帰ってました。
食べたかどうかは知りませんが、
臭かったので、大変だったと思います。

私達が子供の頃には今のように池の回りにフェンスも
立ち入り禁止の看板も皆無で、友達と一緒に
フナやザリガニを釣ったりしてました。
でも一番楽しかったのは、蒲鉾板で舟を作って
池に浮かべ石を投げて沈めるって単純な遊び。
舟に着色した友達、割り箸でマストを付ける友達、
ゴム動力スクリューを付ける等々さまざまに工夫して
個々に楽しんでいました。
そんな私達の前に、お金持ちのお坊ちゃんの信彦君が
頼んでもないのに大きなプラモデルの戦艦を
見せびらかしにやって来ました。信彦君がなかなか戦艦を
池に浮かべず抱いてるので、私が
「それは浮かべたら沈むんかいの!?」って言うと
「沈まんよ、浮かぶし電池で進むし!!」って
戦艦のマブチモーターのスイッチをON!
信彦君が戦艦を浮かべると雄大に出航し始め、
私達は憧れの眼差しで戦艦を見ていましたが、
友達の一人が石をポツン…また一人がポツン…
すると戦艦目掛けて4人が一斉射撃!!
数分後、見事に戦艦を撃破して我が軍の勝利。
信彦君は泣いて帰りましたが、帰宅した私達4人は
親からこの世の物とは思えないお叱りを・・・
信彦君以上に泣く事になりました。

 

さて、次週5/24のテーマは
「昭和のオジサン」で行きましょう。
今日のメールにも「ドブ貝は食べられると持って帰った
という近所のオジサン」の話がありましたが、
近所の名物オジサンっていましたよね!?
いつもいつも話しかけてくるオジサン、
お年玉を渋る親戚のオジサン、
ステテコ姿で自転車に乗っているオジサンetc.
皆さんの昭和のオジサン話、お待ちしております!

2020年5月10日

「昭和の 池」

昭和46年生まれ48歳の高橋裕です。

今週は「昭和の 池」で30分。

 

小学校時代、近くに小さい池「たんぽ」がありました。
潜水艦のおもちゃに水中モーターを取り付け遊びよったら、
見事に池底に撃沈…。船にしちょきゃあえかった…。

このテーマ待望してましたっ!!
忘れもしない、小学3年生の時のこと。
自宅から少し離れた場所にザリガニが釣れるという
夢の様な池があると同級生から聞きつけ、
下校するやいなや、半ズボンのポケットに
スルメとゲイラカイトのタコ糸をネジ込み、
自慢の愛車ツノダの5段式自転車に
股がり立ちこぎ全快で出発しました。
到着するやいなやタコ糸にスルメを巻き付け
釣りを開始すると嘘みたいに入れ食い状態♪
時間を忘れるぐらいに楽しくなり止められなくなったのですが、
そんな状態で用を足したくなり…
とにかく急いで釣りを再開したいと焦ってしまい…。
そうです!チャックで私のワタシを挟んぢゃいました!
当然釣りは強制終了。私のワタシを挟んだまま
自宅まで1時間の道のりを激痛を誤魔化しながら
内股で自転車を押して、息も絶え絶えに泣きながら帰宅。
そのまま母と近所の馴染みの整形外科へ。
ダイレクトに私の挟まれてるワタシに麻酔注射し
嘘のように痛みも消え笑顔に戻りました。
その時、お医者さんが私の挟まれてたワタシを見ながら
「象さんの、お鼻みたいになったねぇ~」とひと言。
母親と看護師さんの笑い声で
診察室が包まれたのが忘れられない思い出です。

小学2年の頃だったと思います。
学校の帰り道、男の子について行って有刺鉄線をくぐり、
小さな池で遊んでいました。
男の子達は力試しで池を飛び越えます。
それをいつも見ていました。
ある日、一人での帰り道(おてんばの私は)、
あの池を飛び越えてやろうと
一人で意気揚々と有刺鉄線をくぐりました。
しっかり助走をつけて…「せーの」と勢いよく飛びました!
左足は反対側にかかったものの、後ろ足が追い付かず
バランスを崩して池に落っこちてしまいました。
びしょ濡れになり、しかも有刺鉄線で
ランドセルと私の右腕をすり切り、散々な目に遭いました。
今でも右腕に残ったキッポを見ると
あの時の悔しくて惨めな気持ちで
(びしょ濡れ、血だらけになって)
泣いて帰った日の事を思い出します。
もちろん、母親にこっぴどく叱られたことは
言うまでもありません。それからリベンジして成功しました。

父親とラジコンのボートを
近くの池で走らせていたのを思い出します。
抽選で当たったのはいいですが、
ラジコンカーでなくラジコンのボートだったので
小学校の低学年一人で水辺では危ないということで
父親と一緒に遊んでいました。

 

まぁ、皆さん、
落ちたり、沈んだり、遊んだり、
いろいろ思い出あるんですね~。

 

さて、次週5/17も「昭和の池」で行きましょう!
泳いだ、沈んだ、亀を育てた、船を浮かべた、etc.
昭和時代の池にまつわる
思い出・メッセージをお待ちしています!

2020年5月3日

昭和の 休みの日の昼ごはんPART2

昭和46年生まれ48歳の高橋裕です。

今週は「昭和の 休みの日の昼ごはんPART2」で30分。

 

休日になるとっ!!
とにかく下関のデパートが大好きな母親に連れられ
兄と3人でバスに乗ってデパートに行き、
6階か7階にあった大きな食堂で
ラーメン定食を3人で食べてました。
当時小学生だった私には食券と言うシステムが
とてつもなくハイカラに感じ、
確か水色のワンピースに腰から下だけの白いエプロンを着た
ウェイトレスさんが半券を契って持って行く姿に
何故だかドキドキした思い出が有ります。
自宅での休日ゴハンはセンダミツオさんが宣伝していた
「ちびろく」って即席ラーメンが大好きでしたねー!!
CMでの「お父さんは、ちび3」ってフレーズが忘れられません。

思い出すのは、
残った冷や御飯での焼き飯
インスタントラーメン。
今は亡き「ちび6」の3玉リクエスト!
そして、何もおかずが無い時の最後の取手が
丸美屋の3色ふりかけ。我が家の人気は、
「のりたま」、「たらこ」、「ごま塩」の順。
完全に3色完食するまで、
母は新しいのを買ってこなかったのですが、
明らかにごま塩だけになったら、消費ペースが落ちてました。

現在、萩で暮らしていますが、小学校から大学卒業、
就職してからもずっと大阪市のど真ん中である大正区という
コテコテのところに住んでいました。
その頃特に憶えているのは、
小学校の頃の休みの日の昼ごはんです。
大体、どこの家庭でも休みの昼ごはんというと、
麺類がメインになることが多いと思います。
うちも平均的関西人を標榜するに足る家庭でしたので、
大体、麺類中心の炭水化物まつりとなっていました。
すぐ近くに商店街があるということで、
よく買いに行っていたのが、
スーパーの入り口で焼いている焼きそばでした。
どこにでもある、屋台の焼きそば風という感じで、
ソースがこってりと乗り、キャベツの芯多めの
歯ごたえのあるのを憶えています。鰹節は乗っていましたが、
当時、マヨネーズはかかってませんでしたね。
それにご飯と味噌汁というお決まりのメニューになるわけです。
また、大阪というと「吉本新喜劇」という鉄板が、
丁度12時になるとテレビから流れそれを見ながら家族で
食事というのが毎週変わらぬルーティンとなっていました。
今は全国的に知れ渡っている「吉本」ですが、
いつも変わらぬギャグと話の展開を白黒テレビ
(途中カラーに変わりましたが)で見つつ、
月曜日学校へ行くとギャグの嵐にうたれるというのが、
関西で暮らし続ける基礎を形作っていくのだと、
どこへいても思います。

我が家の、昭和の休みの日の昼ごはんは、
ラーメンや焼きそば、
うどん等の麺類が多かった記憶があります。
丁度、チキンラーメン、福島ラーメン等が出回り始めた頃です。
昔、冬の田んぼで麦を植えていて、
とれた麦を近所の製麺所に持って行くと
うどんや冷や麦にしてくれていた記憶があります。
それをよく食べていたおかげで私は「メンクイ」になりました。
小学校高学年から中学生になった頃、
午後のテレビの昼過ぎ、いわゆる「よろめきドラマ」の時間帯、
もしくは、「3時のあなた」の時間帯に、
やたらと桃屋・江戸むらさきのCMがあって、
海苔の佃煮でご飯を掻き込むのがマイブームでした。
でも、桃屋は値段もよくて、頻繁に買ってもらえず、
瓶が大きくてリーズナブルな「ブンセン・アラ!」に
乗換えました。

 

さて、次週もテーマは
「昭和の 休みの日の昼ごはん」で行きましょう!
インスタントラーメン、レトルトカレー、焼きそば、焼き飯、
ホットケーキ、総菜パン、卵かけご飯etc.
今日は「新喜劇を見ながら土曜のお昼ご飯を食べていた」と
ありましたが、高橋少年は「お笑いスター誕生」を見ながら
カップ麺とコーラ、この組み合わせがベストでしたね~。
今は土曜も日曜も「何でも鑑定団」ですけどね。
次週も「昭和の 休みの日の昼ごはん」にまつわる
思い出・メッセージをお待ちしています!